そうだ 京都、行こう。2011/12/24


京都旅行最後は東寺に行きました。上野に足をお運び下さった立体曼荼羅の皆様と再び対面。夕陽の差し込むお堂で神々しい仏像達。その中でまた一際威厳のある大日如来に見下ろされて己の邪心が見透かされているような気分になります。

三十三間堂はスペクタクル! 千手千眼に戦慄するセンセーショナルな千体の観音様。一体一体顔も衣の襞も違う仏像は仏教界の兵馬俑であります。

高台寺のライトアップされる紅葉。後ろに並んでいたおじさん達の会話。
「ここは池に映ったモミジが綺麗なんだよ」
「ああ、池モジか」
…池モジ?

京都、二日目。
朝食はイノダコーヒー「京の朝食」1200円(高い!)。
東福寺の庭園、市松模様の苔がこんもりしていてかわいい。通天橋は紅葉を見る人々で凄く混んでいた。

京都旅行一日目、平等院。通称、鳳凰堂。10円硬貨の表側に刻まれている建物です。建物に入ると阿弥陀如来とそれを取り巻く雲中供養菩薩が居られます。なんとも素晴らしい。
御朱印帖を買ってお寺スタンプラリーを始めました。行く寺行く寺で参拝料の他に御朱印代を取られると結構な出費です。
傘を差そうかどうか迷いながら霧雨の降る駒込を歩いていた私は、駅前の中華料理店で膨らませた腹をやや持て余し気味で、よい腹ごなしは無いかと考えながら、ふとそこにあった周辺案内図に目をやった。すると六義園という文字が目に止まって、ああ、雨に濡れた日本庭園というものも風情があって良いかもしれないと思い、さっそく私は六義園に向かって歩き出していたのだった。
元禄8年(1695年)、五代将軍、綱吉から加賀藩の旧下屋敷の跡地を拝領した側用人、柳沢吉保はこの広大な土地に自らの下屋敷を造営した。平坦だった土地に土を盛って丘を築き、当時、境橋から江戸城の北へと流れていた千川上水から水を引いて池を造った。その完成には7年の歳月が掛かったという。

6月末のその日は空梅雨には珍しく雨が降っていて、濡れた樹木の葉は濃い緑色をしていた。広い池はどんよりした空を映して鈍く反射していて、その中を鯉が大きな波を立てて泳いでいった。ちょうど見頃を迎えた紫陽花が庭園内のあちこちに咲き、雨に濡れたその姿は梅雨時期のじっとりした暑さの中でも涼しげで、どこか気品を漂せていた。

雨の降る平日の午後、庭園内は空いていて聴こえてくるのは鳥の鳴き声と、とても小さな雨粒が樹木の葉に当たって微かに響く、ぱらぱらという音だけだった。時々そこに気の早い蝉の声が加わることがあったけれど、それはまだ周りの音を全て消し去ってしまうほどには大きくなくて、広い庭園の片隅で遠慮がちに響いていた。
人気のない庭園を歩いていると次第に雨が強まって来て、最初のうちは木の葉の影で雨宿りをしていたのだが、それでは雨が避けきれなくなった私はすぐ近くに見えていた茶屋へと雨宿りの場所を移すことにした。昼食がまだこなれていなかった私にはお茶に付いて来た和菓子は少し甘過ぎたけれど、たまにしか味わうことのない抹茶の渋みは雨の降る日本庭園にとてもよく合っていた。池の水面に雨が落ち、置物のようにじっとしていた青鷺がわずかに身体を動かした。

にわか雨だったのだろう、お茶を飲み終える頃には雨は上がっていた。池沿いを歩くと大きな鯉が何匹も岸の方へ近づいて来た。餌をくれると思っているのだろうか、口をパクパクさせている。池をよく覗き込むと鯉だけではなく亀もいて、彼らもやはり人間に対する何らかの期待を持って近づいて来ているようだった。残念ながら彼らの期待に応えるものを持っていない私は、申し訳ない気持ちになりながらその場を離れたのだが、しばらく行った先の売店で鯉用のお麩と、かめ君の餌と名付けられた金魚の餌を大きくしたようなものを売っているのを見つけ、彼らの期待に応えるべくその二つを購入し、元の場所へと引き返したのだった。

お麩だろうが、亀の餌だろうが関係なく彼らはよく食べた。大きな鯉に翻弄されながら、それでも尚食べ物を得ようとする本当に小さな子亀がいて、私は何度も彼に向かって餌を投げたけれど、それは鯉に横取りされてしまうばかりだった。何度も何度も私は彼に向かって餌を投げた。時には鯉を惹きつけるためにこちらに餌をまいてからあちらに、といった具合に。彼がようやくのことで一粒の餌を口にした時、餌は全て無くなってくなっていた。水面はさっきまでが嘘のように静かになり名残のような波も収まると、雨の音も消えた日本庭園は静かで、随分昔からここにいるのだろう大きな樹木がとても高いところで微かにたてる木々の葉音は何百年も昔からのひそひそ話をしているようだった。

所用があったため駒込に行き、来たついでだからと散歩をした。時刻は昼過ぎで何かを食べるにはちょうど良い具合に空腹にもなっていたので、地元で有名らしいラーメン店に入る。壁にかかったメニューにはいくつか不可解な名の付いたものがあって、中でも「ガリガリ中華そば」というのが異彩を放っていたけれど、その他にも「馬鹿中華」という注文する者の勇気を試さないではいない名のラーメンがあった。だがそれを注文する勇気を持ち合わせていない私はしかし、その中から単なる「中華そば」を頼むのも気が引けて、どうやら安全そうな「特製中華そば」を注文したのだった。
注文した品が出てくるまで連れ合いと「ガリガリ中華そば」及び「馬鹿中華」とはなんであろうかと、議論を白熱させてしまったのだが、彼女が推測するに「ガリガリ中華そば」とは麺が細めんなのであろう、という事で、青いソーダ味の氷菓を思い描いてはその思いを打ち消していた私は、なるほど、と合点し、では「馬鹿中華」とは? という相手に、おそらく馬と鹿のチャーシューが乗っているのだ、と安易な推測を語っていた。
「特製中華そば」というから、通常の中華そばに比べて何かが特別なのだろう、と思って注文したのだが出てきたのはチャーシュー麺で、普段そのようなメニューを頼まない私は脂身の多い焼豚にやや胃もたれを覚えつつ、ラーメンを食べた。博多ラーメンのような細麺は魚介を多く使ったダシにはあまり合わないのではないかと思いながら、しかし私は他のことで頭がいっぱいだった。連れ合いの推理によれば「ガリガリ中華そば」とは細麺なのではないか、ということであったが、今その推理は間違っていることがはっきりしてしまったのである。その正体がいよいよ謎に包まれてきた時、さっと入ってきた客が店員にメニューの説明を求めた。
「ガリガリ中華そばはガーリックのガリです。馬鹿中華は薄口醤油で作ったさっぱりした味のラーメンです」
我々は推理しようとした己自身が馬鹿らしくなり、足早に店を去るしかなかった。

やや傾斜した坂を登って行くと大きな敷地に木々が沢山生えているのが見えた。それは旧古河庭園だった。元々は明治の元勲・陸奥宗光の別邸だったが、その次男が古河財閥の養子になると古河家の所有になり、その後英国人ジョサイア コンドル博士によって現在の洋館と洋風庭園が設計された。

さらに日本庭園を京都の庭師植治、小川治兵衛が作庭した。その敷地面積は30,780.86平方メートルと広大で、ゆっくり歩くと20〜30分はかかる。

今年は不幸もあって出かけることもなく紅葉など見ていなかったのだけれど、思いもせず良い紅葉狩りになり、私は昨年故人と見た紅葉が今心のなかに蘇ってくるのを感じた。

今月29日に亡くなって10年になる辻邦生さんのお墓に行って来ました。辻さんのお墓は多磨霊園にあって、多磨霊園には他にも沢山の著名人が眠っているので訪ねたいお墓をリストアップして行ったのですが、大雨で辻さんのお墓にしか行けませんでした。しかしそのせいか、逆に感動もひとしおでした。それは何故か僕には運命のように感じられました。天気がよくて色々な方のお墓を訪ねることが出来たら、ここまで感動することはなかったでしょう。
行きの電車の中で辻さんと、北杜夫さんの対談の本『若き日と文学と』を読んでいたら、丁度二人がスイスのトーマス・マンのお墓を訪ねる場面で、墓前で北さんが嗚咽していたという話しが出て来て、これから辻さんのお墓参りにいく自分に重ねてしまいました。

電車が多磨駅に着くとお腹が空いていて、霊園に行く途中にあったコンビニでおにぎりを買って食べました。レジのおばさんに「多磨霊園はどちらですか?」と尋ねると親切に教えてくれました。霊園が近づいてくるにつれて僕は早足になっていました。雨に濡れるのも気にせず走り出したい気持ちでした。入り口の近くには数軒の花屋さんがあり、そこで小さめの花を買いました。
多磨霊園はとても広く、大雨の中、辻さんのお墓を探して歩いたらびしょ濡れになってしまいました。ようやく見つけたその墓前で彼女に「この下に辻さんが居るよ」と言われたら、感動しすぎて嗚咽はしなかったけれど、思わず叫んでしまいました。辻さんのお墓の裏手が丁度空いていて「僕は将来ここに入る!」などと言って彼女に笑われました。花を供え手を合わせるといつまでもそうして、黙祷し続けていられる気がしました。再び目を開いて墓碑を見ると、辻という文字の“十”の線と線が交わるその中心に吸い込まれてしまいそうな不思議な感覚がしました。

帰りに池袋で行われている『作家 辻 邦生を知っていますか—美しい日本語で読む目白—』(09年6月24日〜09年8月6日まで)を見て来ました。としまふれあい交流サロンという建物に入り二階へ階段を上っていくと、事務所風の部屋の一角の狭いスペースにパネルになった辻さんの大きな笑顔がありました。そこには直筆原稿の複製や、辻さんが描いた落書きがあって、中でもその落書き(福永武彦氏の似顔絵)は何とも微笑んでしまうものでした。