synesthesia2011/06/18
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All Instruments by kiyo
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朝は寝ぼけていて電車の中で本を読むような余裕はないし、帰ってくればすぐに寝てしまうので、毎日、仕事から帰る電車の中で少しずつ読むのがこのところ出来る唯一の読書なのだが、空席が目立つ帰宅ラッシュの混雑も落ち着いた時間帯の電車の中で、時にほろ酔い加減でうたた寝をするおじさんの頬を肩に乗せながら、私は十代の初めに読んだ本を懐かしみながら読み直していた。
カトリック学生寮で暮らす三人の不良学生達と、彼らがどんな事件を起こしても見守り続ける聖人に列せられても不思議はないような指導神父。「……となると、わたしがまたあなたがた三人を背負い込むことになるわけでっか。しんどいはなしやねえ」関西弁でそう言いながら結局は彼らの面倒を見てしまう神父はフランス人であり、その容貌は天狗鼻でジャングルのような髪の毛が生え茂り、神父服は手垢と摩擦によって鏡のように輝いている。「ドタマかちまくよ」と時に雷を落としながら、彼は不良学生達の尻拭いをし続ける。
『モッキンポット師の後始末』。昨年春、惜しくも肺癌の治療中に亡くなった井上ひさしのこの作品を以前に読んだのはもうはるか昔のことで、私はほとんど忘れていた内容が読んでいくうちに少しずつよみがえっていく中で、しかし以前に読んだ時とは全く違う手触りを感じるようになっていた。ちょっとした成功に調子づいて失敗を繰り返す三人の若者と、その後始末をし続けるモッキンポット師の物語には、喜劇や人情という言葉が想起されるけれど、それ以上に全体を貫き通しているのは詩的と言っても良いような、不思議な気配である。
この本を初めて読んだ当時、私は詩とは無情で儚いものをそこいにとどめようとする言葉で、私達の生活からは少し距離のある彼岸に存在するもの、そういうイメージを持っていた。しかしある時から、私は詩とはもっと人間的で感情のある言葉だと思うようになった。そしてそれは人が何かを、あるいは誰かを思う時に濃く現れ出るように思えた。
改めて本を読んだ時、モッキンポット師のこの「許し」はキリスト教徒のアガペーというよりも、むしろとても人間味あふれる人情であって、そしてそれがとても美しい詩的なものだと感じた。私たちはすべての物事をありのままに見ることは出来ないが、しかし、そのために自然を見るとき、誰かを思うとき、ありのままに見るときよりもいっそう美しく、大切に思えるのではないか、私は安らかな鼾をかきながら寄りかかるおじさんの重みを肩に感じながら、やや苛立ちを感じ始める自分を諫め、モッキンポット師に許しを乞うのだった。
まだ日の出ない早朝、うるさく鳴る目覚ましを止めて布団の中で大きく深呼吸をする。布団の中から手を伸ばしてカーテンを開けると、窓ガラスは結露でびっしょりと濡れていた。大粒の水滴がまだ暗い窓の外の景色をぼやかしている。彼は起き上がって服を着替えると台所に行き、やかんを火にかけてコーヒーの準備を始める。一月に一度、街へ出かけて仕入れてくるコーヒー豆は、特にこだわりがあるという訳ではないのだが、もう十年以上も同じ店のものだ。店の主人は変わりもので、彼が行くたびに喜んで新しく仕入れたコーヒー豆の出生を長々と話し出すけれど、彼はおとなしく話を聞いて店の主人が満足して語り終えるのを待つことにしている。今日は丁度、新しいコーヒー豆の封を切る日で、店の主人によればそれは、ニカラグアのセルジオさんによって丹精込めて育てられた豆、ということだ。
ミルに豆を入れてハンドルを回す。するとカリカリと乾いた音が響く。やかんからは湯気が上がり、シュンシュンと機関車のような音を立てている。その合奏はめざましの暴力的な音に比べて、なんと心地のよい音なのだろう。フィルターに粉を入れて、その中央を指で窪ませる。そこに五百円硬貨分くらいのお湯を注いで暫く待つ。うすっらと上がる蒸気からコーヒーの快い香りが漂ってくる。窓の外では太陽こそまだ顔を出さないが、それまではただ黒い塊のようだった山の稜線がうっすらと見え始める。彼はその山をイメージしながらお湯を注いでいく。フィルターの中でコーヒーが山のように膨らんで、無数の小さな泡を立てる。
芳ばしく焼けたトーストにバターを塗って口へ運ぶと、彼はもぐもぐと咀嚼しながらコーヒーを飲み、うっすらと白み始めた窓の外を眺める。空には西側に光の弱まった星々が、東側に朝焼けを背負う山々が見えていた。浮かぶ雲は少しずつ形を変えながら東の方へと流れていく。彼は雲を見送りながらカップの底に残ったコーヒを飲み干した。
こんな平和な日々が早く戻ってきますように。
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夜、喉が渇いて自動販売機で飲み物を買おうと外に出たら雨が降っていて、とても久しぶりに湿気のある空気が辺りに充満していた。パラパラと雨粒の音が心地よく、夜の闇がとても親密に感じられた。寒ささえもそれまでの刺すようなものではなくて、春の花々が蕾の中で開花を準備するように、ぼくはどこか遠くの方で、自分の身体が春に向けて何か、スイッチのようなものを押した気がした。
平穏な毎日にあっても人の心は沢山のことに動揺し、不安定極まりない。ぼくはいままで自分が行ってきた選択の正しさを証明できず、自分自身が優しさや親切だと思ってきたものが、ただ、波風を立てぬために選んだ後ろめたいもののように思える。
激動の中にあって、しかもその中心に生きているのなら、なおのこと心は平静ではいられない。紀元前一世紀。ローマ人、マルクス・トゥッリウス・キケロはまさに激動の中心に生きた人だった。貴族階級の腐敗とそれによる共和制という政治体制の危機は国の存亡を左右する事態だった。その渦中でキケロは現在の政治体制を正しく機能させることで、その打開の道を探っていた。だが、天才ガイウス・ユリウス・カエサルはその鋭い分析力で国を救うには政治体制の維新しかないと考えていた。
ぼくたちの生きる現代、歴史を結果から見るのならば、キケロの考えは甘く、その後数世紀に渡って君主制というかたちで国が存続したことによってカエサルの正しさが証明されてしまった。しかしこの二人の同時代人を語るとき、最も重要なのは、二人ともが同じく無念な死を遂げているということだろう。
けれど、死後己の判断が間違っていなかったことが証明されたカエサルに比べて、キケロの場合、その死はまことに無念と言うべきものだった。それは敗北を意味したからである。では何故このような差が生まれてしまったのだろう。様々な本を読めばそこには彼の先見性のなさや優柔不断、自己陶酔、自己保身、日和見的な態度など、およそ人間的欠点の見本のような事柄が並んでいる。確かに彼はここぞ、という場面での決定力に欠け、ひとつの成功に執着し、権力を振るうことを好み、政治動向に流されやすかった。
凡そ人間的魅力の全てを備えたカエサルは現代では常に英雄として語られる。しかしキケロは教養人ではあるがその生き方については、やや道化じみて描かれ、彼の残した膨大な著作が後代獲得した名誉に比べて不遇という他ない。
それでは本当にキケロは単にそのような道化的人物だったのだろうか、そのものの見方に異を唱えるのが本書、『キケロ―もうひとつのローマ史』である。ぼくはこの本を読み進むうち、だんだんキケロの魅力に惹かれていった。それはカエサルのような超人的で完璧な魅力ではなく、不完全ではあるけれどとても人間臭い魅力だった。哲学を愛し、毎日のように友人に手紙を書く彼は、人間的すぎるほど人間的だった。キケロ、ラテン語で「ひよこ豆」を意味するこの名前も彼の魅力となっている。伝統的に古くからの貴族が支配する元老院に於いて、まったくの新人の彼はこの無名の名の改名を勧められたとき「いや、ぼくの名を有名にしてみせようじゃないか」と言っている。
何故、キケロは歴史的判断に於いてカエサルに負けてしまったのか、それはマルクス主義と資本主義の関係に似ている。マルクスは100人のうち10人が恵まれないのならば100人が一割ずつ我慢すれば良い、と考えた。しかしこの考え方は人間の欲望にあっさりと否と唱えられてしまう。キケロはまさに人間の欲望を甘く見たのではないだろうか。政治的状況に応じて妥協しながらも努力し続けた彼は、いずれ人間の美徳によって全てが正しい方向へゆくと信じていたのだろう。カエサルは人間を知っていた。欲望を放っておけばどうなるのか、人間の善性を最後まで信じたキケロは、そのために歴史上敗北者とならざるを得なかった。
人間ならば誰にでも、すべてが見えるわけではない。多くの人は、自分が見たいと欲する現実しか見ていない
キケロはカエサルのこの言葉に「理想に向かって生きるのが人間である」と答えたかったのかもしれない。
カエサルとキケロ、彼らはその才能の故に死を迎えることになったという点で共通している。カエサルは驚異の天運と分析力と行動力によって、そしてキケロはその見識と博学、そして理想によって。
理想と現実との葛藤の内に人は毎日を過ごしていく。しかし過ぎ去ったものごとに対しては、ぼくたちは過去の自分を信じるしかない。選択を拒否することは出来ない。「何も選ばない」ということもそれを選択してしまったことになるからだ。
自分の優しさや親切に不信感を抱くとき、ぼくは自分の深渕を覗き込んでいるような気持ちになる。そこには理想とは程遠い暗黒が立ち込めていて、とてもエゴイスティックな自分が己を正当化しようと企んでいる。己の理想像を信じ続けることはとても難しい。死を選んでまでそれを成し遂げたキケロは決して敗者ではない。

今年の夏には10歳になるデューク。毛皮に覆われている犬でも年をとると寒がりになるというので服を着せてみました。首周りが大き過ぎたようでブカブカしていたので余ってる部分を縫って縮めてみた(因みに写真は縫う前です。とても久しぶりに裁縫した)
本日車に乗り込み、おもむろに私エンジンをかけました。ところで我が家のカーナビは毎日エンジン始動させると「本日は〇〇の日です」と教えてくれます。彼(喋ってるのは女の人だから彼女と呼ぶべきか?)は365日の記念日及び祝日をもう全て網羅していて、毎日とりあえず何らかの日です。
さて、ここで問題です。本日は何の日でしょう。シンキングタ〜イム!! チッチッチッチ…チーン。
正解は「1月21日、本日はライバルが手を取り合う日です」
なんじゃそりゃー!!
車庫出しの為にバックをしていて思わず事故りそうになってしまった。
正月に帰れなかったので週末に里帰りをしたのだが、寒の入りを迎えた故郷は東北では最も南にあるとはいえ最高気温が氷点下を下回り、路面からは凍った空気が吹き上がっていた。その日、遠くの雲から雪がちらついてくることはあったけれど我が家の上空では青空が見えていて、そのとても高くまで見渡せる空から寒さが地上に向かって降りて来ていた。
私は寒さに身悶えしながら、20年以上も前から使ってきて、どうやらこの冬でお役御免になりそうな薪ストーブの前に陣取って手をかざし、数日前に昨年になってしまった日々のことを思い出していた。そして改めて思い出す必要もないくらいに確かなことを深く考え、時間が経つほど鮮明になっていく記憶があることに驚いていた。
彼女が息を引き取る瞬間、彼女の家族と共に病室にいた私は酸素マスクを口元からずらして彼女の声にならない言葉を、その口の動きに合わせて、まるで自分が彼女の声帯になったようなつもりで声に出した。すでに彼女は何度か呼吸を止めていたけれど、呼びかけるたびに戻ってきては何かを伝えようとしていた。
「ありがとう」
「ごめんね」
「あいしてる」
読唇術など知らないのに一言ずつ彼女の口は確かにそう動いた。私は彼女の口元に酸素マスクを戻したがその瞬間、頭からすっと力が抜けていくのが分かった。もう一度呼びかければ、またそれまでのように戻ってくるかもしれないと思った。だが自分の意思を伝えきった彼女に、私たちはもう一度呼びかけることはしなかった。彼女が死に抗い続けた時間が、もうそうしてはいけないことをそこにいる全員に告げていた。
私はベッドの脇に置かれた棚の上のレモン果汁を見た。それは二日前、秋の初めに入院してからずっと何も食べることも飲むことも出来なくなっていた彼女が、レモン水で口をゆすぎたい、と言ったために買ってきたものだった。病院の一階のコンビニには売っていなくて、私はスーパーを探しながら隣駅まで行ってしまったのだが、いつもならそんなことはぜずに、また来るときに買ってくる、とでも言っただろう。何故その日、自分がそうしてしまったのかは分からないけれど、一日置きに彼女を見舞っていた私が次にあった時、彼女は殆ど意識を失っていた。だからレモン果汁を買って病室に戻った時、遅い私を心配していた彼女がとても喜んでくれたのを私は思い出していた。
彼女と出会って僅か三年程にすぎなかったけれど、時間の長さなどとは無関係に、私は彼女の不在によって自分の人生から多くのものが喪失してしまったように思えた。そして彼女との思い出を考えるとき、一人の人が人生で与えてくれるものの豊かさに改めて驚くのだった。
大切な人を失うという経験は残されたものにそれまでとは決定的に違う何かを植えつけていく。今私はこれから芽生えるであろうそれを予感しているに過ぎないけれど、どこかにそれがあることによって、自分はこれからを生かされていくのだろうと思う。
ストーブの中で炭になった薪が音を立てた。気が付くと外はすっかり日が暮れていて、濃紺の空に浮かぶ黒い雲の隙間には星が輝いていた。とても細い新月が青白く光り、太陽の熱が失われた地面にうっすら雪が積もり始めていた。
恋人の母親であり、僕自身にも大切な友達であった人に捧げます。
今日は月命日。初めて知っている人の眠る墓前で手を合わせ、しみじみと「いない」というのはなんなのだろう、と思う。空は雲ひとつなく晴れていて、手を合わせながら語りかけた言葉が、空中で反響しながらきっと故人まで伝わるような気がした。

上野まで出たついでに上野藪そばで食事する。美味しかった。けれど、せいろ一枚でもなかなか良いお値段。また、ぶらぶらと歩きながら色々なことを思い出す。風はなく空気も柔らかで、身体は何の抵抗もなく進んで行く。街はクリスマス一色。自分からは線香の香りが漂っていた。

福島に五泊六日で帰省する。近所のスーパーに買物に行ったら雀のなる木があった。美味いものを食べ過ぎて我が人生史上で一番太ってしまった。祖父母も元気で良かった。おばあちゃんの持たせてくれたオミヤがとても美味しかった。
行きつけのラーメン屋のおじさんは相変わらずジャージ姿で驚くほど美味いラーメンを作っていた。久しぶりに行ったコーヒ豆屋のマスターは親になっても相変わらず己の美学を磨き続けていた。そして父の同級生の開いた喫茶店にはオーディオマニアが集まり、洗練されたオーディオの話を土着性の強い言葉で話し続けていた。
「JBL(のスピーカー)あっぺなっ!? あれをメートル、ウン万円のケーブルで鳴らしたら最高だっペよ!!」
誰もお店の素晴らしいオーディオ装置から鳴らされる音楽は聴いていなかった。

帰りに佐野のアウトレットでクラークスの靴を買う。買うまでとても迷った。しかし初めてこんなイイ靴を買ってご機嫌。

約一週間ぶりに会うデュークはしつこく甘えてきた。そして疲れて眠る姿。ちょっとお腹がメタボな感じが…。
お気に入りだったグンゼのパンツの製造が終わっていた。私が気に入ったものは消え行く定めなのか…。ネットで在庫限りを買い占める。そんな師走。