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柔らかい雨

 雲は人間が吐き出す憂鬱を含んだ水蒸気の固まりで出来ていると言ったのは誰だったろう。人がため息をつきすぎるとそれは互いにくっつきあって低気圧になり移動を始め、雨を降らすのだとその人物は言っていた。それでは晴れた日というのはこの国にやって来る空気が作られている場所に住む人々の機嫌が良かったという事だろうか。

         *

 気温十二度、冬の残していった寒さは日毎に緩まってはいくが、それでも少し日が陰ると襟元を正してしまう四月の初旬、けして例の場所に住む人々が幸せだったのではないであろう薄曇りの日に、窓から見下ろす公園の桜が僅かに咲いていた。それはあと四、五日例の場所の人々が上機嫌でいたのなら満開になりそうだった。しかし今年の春はいつまでも冬の気配を残したままで、気温の上がらない日々は桜の開花を例年よりも遅らせている。
 春の緩慢な訪れは冬眠している生き物達の柔らかい夢を長引かせるかわりに彼らの目覚めにひどい空腹を感じさせる。窓の外で烏が何かをつついたり、電線に止まったりしている。数年前になんのためか増えた電柱に僅かの弛みを残して張られた電線の上、等間隔に彼らは並んでいる。その足元を通ってこちらにやってくる電気を先日街に出かけた折に、ふと目に止まりさみしい財布の中身を考えもせずに買ってしまった本を読むためにつけた。

 本から目を上げて外を見ると雨が降っていた。空はどこまで見渡しても晴れ間なく雲の厚みもほとんど均等に広がっていて、それはあらゆる人の憂鬱をため込んできたような雲だった。雨はこれから何年も降り続きそうに見えた。

 数十分の間があって、落ちてくる雨粒の音が少しずつ途切れながらに聞こえるようになった。街は静かだった。途切れがちに響く雨音以外に聞こえる物は殆どなく、ただ通りすがりの足音だけが僅かに空気を震わせては去っていった。ふと、誰かに会いたいと思った。決まってこんな雨の日には孤独や寂しさが不思議と胸の中で雲間から覗く太陽の様に、ふいに現れた。あてもなくそれは胸の中で焦燥感をかき立て、やがて絶望に似た疲労で眠りにつくまで付きまとった。ため息が出た。そしてそれは微かに揺れながら蒸発していった。

 人々の不幸が存在しなくなれば、雨は降ることがなくなる。しかし、雨の降らない世界は人々に不幸だった。ずっと前に聞いた話の結末だった。現実には蒸発して雲になるのは人々のため息ばかりではない。今テーブルの上で紅茶が冷めながら少しずつ蒸発しいる。その蒸気を見つめていると、体中何処を探しても見つからない心が僅かに軋んだような気がした。紅茶を飲み干すと、あの電線の上にいた烏は今何処で眠っているのだろうと考え電気を消した。眠りはすぐにやって来た。それは身体が一時的に休息のために機能を停止するという感じではなくて、まるで暗闇の中からやって来てふんわりと身体を抱え込むような優しい眠りだった。

柔らかい雨の上がり

 とてもおかしな夢を見て目覚めた後でさっきまで過ごしていた夢側の世界と、今いる現実との区別をおぼろにつけながら薄いカーテンから射してくる光が妙に頼りないので今日は雨なのだろうと見当をつける。
だんだん五感も覚めてきて、耳を澄ますとうっすらと雨が地面に降りている音が聞こえる。誰かが鉢の花に水をやっているような音だ。花が根から吸い上げた水で背筋を伸ばしていくように体の中を低血圧の血液が巡ってきて、布団からはいだし、まずは空を見ようとカーテンを開ける。停滞している低気圧、窓枠に沿って広がっていく薄ら雨の街。そこいら中の窪みに水溜まりを形成していく雨粒。遠くの方でちぎれて左右に離れていく雲は午後から晴れだという夕べの天気予報が当たることに望みを持たせている。この街の一番賑やかな通りを色々な傘がすれ違って行くのがここからは見える。

 軽く朝食をすませると新聞の天気予報欄に目を通した。夕べの天気予報どおり日本全体を覆っていた低気圧が少しずつ離れて行き、この国は午後から概ね晴れる予報だった。窓の外の公園の桜は薄く色づいたまま、昨日となんら変わりはしなかった。黄色いカッパを着て長靴を履いた小さな女の子が公園でブランコをこいでいるのが見えて、何故か外に出てみようと思い、レインブーツを履いてドアを開け、傘を差してその透明なビニール傘から見える空を少しの間見上げていた。公園にたどり着く頃には女の子はいなくなっていて、ぬかるんだ地面に女の子が残した小さな足跡だけが残っていた。空車のタクシーが通り過ぎて行きそのタイヤで水たまりが揺れ、しばらくして元の形に戻った。水たまりはうっすらと油を含んでいて表面が虹色に揺らいでいた。雨粒がその水たまりを成長させようと勢いを強めると、水たまりは一瞬ごとに跳ね上がり新たな雨粒を吸収して行く。

 大きな国道沿いに出るといつもよりは少なめな車がそれでも引きも切らずに走っていて、歩道橋を渡っているとトラックなどの大型車が通る度に上下に揺れ、何処か遠くから巨人が近づいて来ているようだった。歩道橋を渡り終えるとそこは今朝窓から見た通りで通勤時間を少し過ぎた今の時間は人通りもまばらだった。道の両側には書店や楽器屋、大型チェーンの居酒屋などが並んでいて、どの入り口にも一様に傘袋が用意してあった。誰もが目的を持って、行く先の決まった歩行をしている中、目的も行く先も決めずに行き当たりばったりの歩行をしていると、他人との距離が妙な膜によって隔てられているような気がした。
 遠くの方で太陽の光が雲の隙間を見つけ、その隙間から雲を突き抜けて来ると、それはあちこちに突き抜けて行き、やがて小さな晴れ間を作り、次第にその晴れ間を大きく広げて行った。人々の歩く通りの上空でも雲に穴が空き、だんだんと雨が小降りになっていった。道路を挟んで向こう側の歩道を黄色いカッパを着た小さな女の子が歩いていた。カッパのフードを下ろして母親に手を握られ、長靴のつま先で水たまりを蹴るようにして歩いて行く。 

 誰もが傘をたたみ少しの間空を見上げると、目的地へと歩いて行った。

柔らかい雨の蒸発

 体ごと吸い込まれそうな青空が広がると、目的のない歩行は自然に見知らぬ場所へ向かっていて、街の通りの停留所からバスに乗ったのはふと見晴らしの良い場所へ行ってみようと思ったからだった。そこは今まで来たことのない街が土地を買い取って開いた丘の上の住宅地で、南に向かって開けた展望はいつも部屋の窓からしか見下ろしたことのない街が遠くまで見渡せて、そこに空の青みが重なると街全体からつい先ほどまで降っていた雨が蒸気になっていく様子が見えるような気がした。それは頭の中に早回しの映像のように、町中の窪みから水が干上がっていく様子を想像させ、同時に心の中にある窪みにたまった憂鬱が霧散して行くような心地の良い日差しだった。
 少しだけ傾斜した道を下り住宅地の中心まで来ると、きちんと区画整理された住宅地はどこを見ても同じようで、並んで建つ家々も特にそれぞれの特色があるわけではなく、何か空々しい雰囲気を持っていた。住宅地のほぼ中央に位置する場所に小さな広場があり、そこで小さな子どもを遊ばせる母親たちや犬の散歩をする人々の姿を見なかったのなら、まるで誰もいない世界に来てしまった様な気がしたかもしれない。
 裏側に回れば一枚の板を一本の杭が支えているだけのような、立体感のない家々を見ながら住宅地をうろうろしていると、唐突にログハウス風の家が一軒、周りの建物との調和を無視するように建っていた。営業中と無骨な感じのする木の板をドアにぶら下げて、珈琲と書いてあるところを見ると喫茶店であることは間違いなく、歩き回ってくたびれた足は自然にそちらへ向かっていた。 板張りの床と薄暗い照明が落ち着いた雰囲気を漂わせる店内には、女性が一人、対面がカウンターになった狭いオープンキッチンで何か作業をしていた。暇な時間帯なのか客はおらず席はどこも空いていた。常連でもないのにカウンターに座るのは躊躇われて、テーブル席に座ろうとすると、天井から吊るしてあるランプシェードに頭をぶつけてしまい、ちょうどメニューを運んで来た女性に、気をつけて下さいね。私もよくぶつけるんです、と優しく注意を促された。手渡されたメニューのほか、本日のおすすめはあちらですと小さな黒板を指す女性に言い訳がましく、お腹がいっぱいで…、と断りながらコーヒを頼むと、彼女はオープンキッチンの中に戻り、今時珍しいサイホン式のコーヒを淹れはじめた。
 運ばれてきた珈琲はやや大きめで手作り風の明らかに大量生産はしていないであろうカップとソーサーの上で湯気を立てていて、すっと立ち上っていくその湯気に鼻を近づけると、何ともいえない香りがした。

 帰りのバスの中には乗客が少なく、その広い空間とバス独特の揺れに眠気を感じ、まるで雲の中にいる様なふわふわした感覚を覚えながら街の停留所に着くと、すでに雨でぬれていた地面は乾いていて色々な店先に出ていた傘袋もしまわれていた。見上げると空に雲はなかった。この街から蒸発した雨は大きな雲のバスに運ばれて、次にどこの停留所で降りるのだろう。

柔らかい日差し

 午後になりすっかり乾いた街並に垂直に落ちる日差しを受けて、朝よりも気温が上がると、心無しか人々は肌寒さのために少し縮めるようにして歩いていた体を、大きく伸ばして陽の光を浴びるようにして歩いているように見えた。今朝女の子が遊んでいた公園では太陽が柔らかい日溜まりを作り、僅かに色づいた桜の木々に春の到来を認めさせようとしている。公園にはぬかるんだ地面が乾くにつれて、散歩にでて来た老人、ベンチに座りぼんやりする人などが増えて賑わっていた。適度に人からはなれた場所にあるベンチに腰を下ろして足下を見ると、誰かがぬかるみを歩いた足跡がそのまま乾き、地面はでこぼこしていて、そのでこぼこした地面を蟻の隊列が大儀そうに乗り越えて行き、少し向こうで小さな子どもがそれをじっと食い入るように観察していた。少しずつではあるけれど所々に出て来た虫たちは、まだ蕾の方が多い花にとまっていたり、ゆっくりと地面を這っていたりそこここに見受けられた。そうした虫たちは、もう冬の終わりは遠のき、春の始まりも半ばまで来たのだと実感させた。気付くと今まで地面の蟻を熱心に見つめていた子どもが、こちらをじっと見ていた。目が合うと少し離れた場所にいた母親の元に走って行き、母親の服の裾にしがみつくと不安と好奇心の混じった目でこちらを振り返った。

 遠くまで続く青空にうっすらと雲が流れていた。昨日までの様な憂鬱を寄せ集めたような重々しい塊ではなく、うすいレースのように向こう側を透かして見せるその雲は、人々の溜め息というよりは深呼吸が作り出したようで、清々しくホッとする風景の一部としてとても効果的な役割を果たしていた。人々の足音、小鳥のさえずり、虫たちの羽音はそれぞれになんの関連性もなく鳴り響いて、春の日差しの中で調和している。

柔らかい日暮れ

 やがて体ごと吸い込まれそうになりながら沈んでゆく夕陽をずっと眺めている。足下から延びた影が夕日が沈むと共に延びて、千切れる手前で闇に呑まれると、どのくらいそこへ立っていたのか、肌寒さが空気中の粒子のように体を包んでいた。しかし日が延びて次第に日照時間が長くなって来ると、日が暮れてからも太陽が残して行った微熱が地面や空気中に残っていて、夜も少しずつ暖かくなっているのが感じられた。

 電気スタンドのシェードから伝わって来る光に当てて本のページをめくっていると、体の何処かから急に眠気が干潮から満潮へと変わる浜辺の波のようにおしよせて来て、逆らいようのない眠気に本を閉じると、そのまま眠りへと落ちて行った。眠りは深く、とても穏やかだった。