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孤独の中身
誰もいない部屋、外には夜と朝、知人と他人、自然と不自然、有機物と無機物がそれぞれ均等に調和した賑やかな世界が広がっている。その外の、日向と日陰でくっきり線の引かれた空間の中で外を見ている。
午後。通りには車が走っている。車が次から次に中身を運んでいく。日が照っている。日が陰り、日陰になった窓際でそれを見ている。
パン生地がオーブンの脇で膨らんでいる。それを見ながら膨らませた想像をやめて外を見ている。外にはそれぞれ均等に調和した世界が広がっている。時に絶望に苛まれながらそれらは調和を続け、やがて暗闇が来て一日を終える。
部屋の隅、塵のたかった百科辞典。窓辺に差し込む月。誰もいない世界の絵がかかった壁際で外を見ている。薄明るくなり鳥が鳴き始める。布団に潜り込み頭を埋めた枕から目だけ外に向けている。
絶望という名の空間
やけに陰気な場所だった。じめじめと湿気が多く薄暗い、直径10メートル四方程の空間。気がつくと私はそこにいた。私以外に人の姿はなく唯一存在と言えるのはここの門番だけだった。しかし門番は頼りないふらふらとした存在に過ぎず、その存在はとてもあやふやだった。私が最初ここに来た時、門番は言った。「おや、今時ここに人が来るなんて珍しい。」そうか、と私が尋ねると「今時の人間はここに来る程絶望したりしないもんさ。もうずっとここで門番をやっているが、ここにこないだ人が来たのはもう何十年も前の話だ。」と門番は言った。
門番が頼りないガタガタのドアを開け、私は中に入った。「まあ、あんたも早く出ていく事だね。」と言って門番はドアを閉めた。そこには門番の言うとおり誰も居なかった。そこには孤独が在るきりだった。それ以外は自分の影すらも何処かへ行ってしまった。
それから私は、およそ孤独というものが精神に及ぼすあらゆる絶望、失望を感じた。しかし時間が経つにつれ次第にそれにも慣れていった。
この空間の隅の方に短針の無い振り子時計がカチカチと時を刻んでいた。短針の無い時計はひどくあやふやで、ずっと時計を見続けていたのでなければそれが五分後なのか一時間五分後なのか、二十四時間五分後なのか区別出来なかった。その時計は時の流れを意識させ、ひどく焦燥感を掻立てるくせにまったく過去を作り出さなかった。時計はただ時間が経過しているのだという事だけを頭に刷り込み、しかし現在と過去を区別する明確な証拠を残さなかった。
ここに入るとき門番は「あんたも早く出て行く事だ。」と言った。しかしこの空間に入ってからというもの私はここから出て行く気にはなれなかった。また仮になったとしても、どうやって出て行くのか皆目見当もつかなかった。門番が閉めたドアはひどくガタガタで頼りないくせに、押しても引いても開く気配はなかった。
どれくらいの時間が経過したのか、もう孤独は孤独ですらなかった。絶望や失望は感じるだけまだ希望的だった。次第に無感覚になって行く精神にそのような動揺がおこる事はもうあまり無かった。外の事を考えてみた。他者という非常に無価値な醜悪な固まりの集合体が寄せ集まって蠢いている。誰もが蠅の様に愛だとか夢という物にたかっていた。それらは粘着性のネズミ捕りの様に全ての人々を不自由にがんじがらめにしていた。晴れ渡った空の下、愛と呼ばれる粘着性の物体が何か大きな存在によって路上に置かれた。次第にそこには人垣ができ、群衆はその上でのたれ死んで行った。
空虚な空間の話
もうどれだけの人がここを去っていただろう。
私だけが永遠に取り残され、そしてまた誰か来て去って行く空虚なこの空間に。
そこには虚無が浮いていた。グチャグチャとした不細工な固まりだったが、それは少しずつこの空虚な空間の中で育っていた。
食事などここに来てから摂ったことがなかったし、空腹を感じたこともなかったが何故かひどく空腹を感じた私は、ある日その虚無を食べてみた。虚無は最初は抵抗していたが、一寸経つと自ら私の胃に収まった。そして虚無は次第に私の中で大きくなっていった。空気を入れ続けられる風船の様に私は膨らんでいった。しかし空気を入れ続けた風船が当然迎える結末、破裂は私にはやって来なかった。
私は既に自分の許容以上の虚無を体に収めていた。しかし私はいつまでたっても破裂しなかった。胃に収めた筈の虚無は今は胸の辺りにあった。そして終始私に絶望を感じさせた。この奇妙に空虚な空間に取り残された私は、次第に虚無が際限なく膨らみ胸を圧迫していき最後、私が迎える結末を考えてみた。しかしそれは奇妙に取り残され、時間さえも去って行ってしまったこの空間でどれだけ考えてみても無駄な事だった。
いた事にすら気づかなかった誰かが席を立ちこの空間から去って行った。胸の虚無はまた少し膨らみ、すべてから取り残されたこの空間は相変わらず空虚だった。
世界との距離
ひどく気分が落ち込んでいた。特に理由があるわけでもなく塞ぎがちになっていたのは、このところ日増しに濃くなっていく寒さのせいだろうか。世界と自分との距離が妙に遠く感じられて、深夜、寝台の上で突如襲って来た空腹を無視して眠ろうとしている時など、考えのまとまらない頭の中に空腹が追い討ちをかける様に忍び込んで来て、私の孤独感を助長した。
世界と私は「二本の木が寄り添い合うように、並んで立っている」のかもしれない。私は世界のすぐ側に立っていることを喜んでいた。しかし今、何故か私の側に世界はなかった。それは心のない人が放った言葉が木こりのように私を切り倒してしまったわけではなく、世界の方がどこか遠くへ移動してしまったわけでもなかった。いや、世界は相変わらずそこに立っているのかもしれなかった。ただ、私にはその存在が際限なく無限を経だてた遠くに感じられた。あるいは世界と私は寄り添い合って立っているのではないかもしれない。一個の林檎に刺さる楊枝のように私は存在しているのかもしれない。林檎は私を乗せて、くるくると大きな光の周りを回る。いや、もしかしたら巨大な亀や象や、そういった聖なる動物に支えられ、世界の果てが滝になり、天が忙しく回る世界に私は存在するのかもしれない。いずれにせよ、とにかく私は世界が遠くへ行ってしまったのを感じていた。
私は寝付けずに明け方、外にさまよい出ると、薄暗闇の中、東の空から太陽が昇り始め、空の東半分が朝になり西半分に夜が残っていた。その曖昧な境界線を夜に染められたような一羽の烏が横切っていくと、西側に半分だけ残っていた夜は何かを諦めたように東側の朝に呑まれていった。
長く真っ直ぐに伸びた道の端でプラタナスの並木がさらさらと葉を揺らしていた。葉を揺らした風が道を吹き抜けていくと、それまでほんの少し立ちこめていた夜の気配は何処かへ跡形もなく霧散していった。
次第に青みを増していく早朝の空はその様にして明けた。誰も歩いていない道に一人ただ呆然と立って朝を迎え、世界と折り合いのつかぬ孤独さにきしむような声を上げながら私はその様子を一部始終眺めていた。
太陽が昇りきる頃には、もはや発狂しそうな葛藤が全身の何処か、くまなく探しても見つからない心に重く伸しかかっていて、私はその場から動けず、今にもへたり込んでしまいそうだった。
※1.「二本の木が寄り添い合うように、並んで立っている」
池澤夏樹『スティル・ライフ』冒頭部分。
※2.一個の林檎に刺さる楊枝のように…
ベルトルト・ブレヒト『ガリレイの生涯』
アンドレアに地動説を説明するガリレイ。











