クジラノヌケガラ

久しぶりの晴れ空。
鯨のような雲とその抜け殻のような雲が、山の上にあるきりで、
頭上には雲の欠片も浮いていないので、太陽光線が久しぶりに地面に出会うのだが、
運悪く何かに遮られた光は、そこに濃い影を作っていた。
私は鯨のような雲が綺麗に白く光っていたのでモービー・ディックと名前を付けた。

モービー・ディックはゆっくりと泳いで行った。
私は久しぶりの晴れ間に洗濯物を干そうと思い、洗濯物を一枚ずつ洗濯バサミに挟んでいた。

しばらくして見上げると山の上のモービー・ディックはいつの間にか解体されて、
バラバラになっていた。まず頭部が車になり腹部が達磨になり、
尻尾の方は団扇か何かになっていた。
それから、また、それぞれがそれぞれに、何かよく分からないものになっていった。
そして何度も変形を繰り返した後、それは小さな何匹もの羊になった。
羊は「メイメイ」と鳴いてお互いにくっつきあった。
そしてそれはやがて大きな灰色の雨雲に変わり、モービー・ディックは一粒一粒、落ちて来た。

モービー・ディックは水たまりになった。

   *

水たまりになったモービー・ディックは空を見上げていた。

—いつか、また、あそこに帰りたいものだ。

彼はそう呟いて雲の立ち込めたくらい空から一粒一粒、
自分の一部が落ちて来るのを波紋を広げながら受け止めていた。

雨は二週間、降り続いていた。
二週間も降り続いていたのでモービー・ディックの水たまりはとても大きくなっていた。
彼の中で蛙が泳いでいた。
少しこそばゆかったがモービー・ディックにとって、蛙は気休め程度に孤独を和らげてくれた。

ある日、二週間降り続いた雨が上がった。
モービー・ディックは自分が少しずつ空に昇っている気がした。
彼は蛙にさようならを言った。

   *

久しぶりの晴れた空。
気持ちの良い微風に洗濯物が揺れている。
「う〜ん」と伸びをしながら見上げた空に大きな鯨の形をした雲が…。

空を飛ぶ蛙

蛙は言いました。

—君は空からきたのかい? いいなあ、ぼくは跳んでもせいぜい数センチ、
 その状態で舌を伸ばしたって空には届かない。

モービー・ディックは蛙に、空でした旅の話を聞かせました。
風に流されて行った世界中の空のこと、
そこから見下ろした色々な国のこと、
そして見上げた無数の星々のこと。

とてもお金持ちの国と貧しい国、
自分の信じるものが一番だと言って争う人々、
そういうことも話しました。

蛙はモービー・ディックの話を黙って聞いていました。
そしてモービー・ディックが話し終えると、

—何処かに空を飛ぶ蛙ってのはいなかったかい?

と聞きました。

そんなものは見たことがない、とモービー・ディックが答えると、
蛙はガッカリしたようでした。

モービー・ディックは自分から少し離れた場所に
綺麗な花が咲いているのを見つけました。
その花は空から降って来る自分の一滴一滴を吸い上げているようでした。
そして空に向かってピンと伸びている様子は、
まるで自分と同じように、空に昇りたがっているようでした。

空の味

空を見上げ跳び上がってみるのだけれど、
彼がどんなに高く跳び上がってみても空には届かなかったし、
空の方も彼に近づいて来ようとはしなかった。

—空まで跳んでみたい。

蛙はずっとそう思っていた。
仲間達は皆、彼を笑ったけれど彼は気にしなかった。

仲間達は皆、雨の日を喜ぶが彼は晴れた日が好きだった。
晴れた日には何処までも青い空が広がって彼の夢想をより駆り立てた。
ある日はなどは青空を見ることに夢中になり過ぎて、
危うく干涸びてしまうところだった。

—自分は空まで跳ぶために生まれて来たのだ、そうでなければ何故、
自分は毎日ピョンピョン跳ねているのだ!

蛙はそう思っていた。

少しでも空の近くへ!
彼は思いっきり跳び上がり、そして舌を伸ばしてみた。
しかし空の味はしなかった。

雨の気配がした。仲間達がいっせいに水から出て、
今か今かと待ち侘びるように空を見上げた。
彼は皆とは逆に空を見上げるのをやめた。

一滴一滴と雨が降ってきた。
蛙は仲間達が喜ぶのをふてくされながら見ていた。
自分がいつか辿り着きたいと思っている場所にいながら、
雨は何故わざわざこんな所に落ちて来るのだろう?
そう思いながら少しずつ大きくなって行く水たまりの波紋を見てみると、
そこにはゆらゆらと揺れながら空が映っていた。
蛙はそこへ飛び込んだ。
そうしてその中で泳いでみるとまさに今、彼は空の中を泳いでいるのだった。
雨粒は次々と水たまりへ落ちてきた。
彼はその雨粒を一滴舐めてみた。
それは空の味だった。

緩やかな旅

 時間の経過は別段そういう風に感じようとしているわけでもないのにゆっくりで、けれども早い。それは青空に浮かんだ雲の移動に似ていて、空があまりにも広いために雲が早く動いていても、ほとんど止まって見えてしまうように、今、目の前で人生が途方もなく長く、ゆき先の分からぬ場所へ続いているように感じている私の不安が、時間の流れをそのように感じさせているのだろう。私の足取りは早く、毎日私はその人生の道を思いのほか進んでしまうのだが、見通しの悪い道でその長さもわからず、歩くペースも調整出来ないまま、やみくもに、私は日々を過ごしているのだ。
 私の名前はモービー・ディック。私は比喩ではなく空に浮かび風に流されて行く。地上から見上げればそれは僅かずつの移動にしか見えないだろうが、もし見上げる者が飽きもせずに一日中私を見上げていたのなら、私の一日の移動距離がなかなかのものであることがわかるだろう。
 風に押し流されながら地上を眺めていると突然大きな爆発音が聞こえ、そちらへ目をやると浅黒い肌をした人々が何かを争っていた。それは何か神聖なものを奪い合う争いのようだった。人々は一様に何かに祈り、跪いていた。女子供が泣き喚いていた。その喧噪をよそに、倒れたまま動かなくなった者が何人もいた。彼らは信じることによって幸福を得たのではなく、死に対する恐怖を喪失したのだろうか? もうずいぶん昔から—彼らの神聖なものが生まれる前から—私は幾つもの争いを見てきた。しかしその争いは、嵐のさなかにあっても上空に青空があるのが疑いようのないことであるように、どれだけ長引いてもその争いがいずれは終わりに向かうということが感じられた。しかし今私が見下ろしている争いは、どれだけその上空へ出ようとしても、果てなく雨雲が山積しているかの如く終わりの見えない争いだった。
 いつの間にか私はさらに移動していて、今度はとても広大な大地の上にいた。そこは本当に広く、ただ見渡す限りの地平線があるだけだった。太陽光線は強く、大地を焦がすように降り注いでいた。小さな集落がぽつりぽつりと見えて、そこに人が生活していた。そこの人々はとても痩せていて貧しいようだった。ぼんやりとそこの人々の暮らしを眺めていると、突然、太陽の力が弱まり、私は体が膨らんで重くなっていた。そして私は小さな水滴になって地面へと落ちて行った。
 やがて私は地面に溜まり、彼らの顔を間近に見た。肌が黒く、大人も子どもも痩せ細っていたが、これ以上ないというほど笑顔で私を覗き込み、私が来たことを喜び、中には歓声を上げるものもいた。そこでは木も花も人も私を歓迎してくれた。
 彼らは大きな桶に私を汲み、自分の家まで運んで行った。その家は今にも崩れそうで狭かったが、八人の家族が住んでいた。いつか見た街の暮らしとは違い、誰もが便利さとはかけ離れた生活をしていた。誰の側にも死がより近くにあった。しかし、だからこそ彼らの生はとても強かった。世の中が便利になるに連れて人々は心と体が分離し、行動と思考は別の物になっていったが、彼らはただ思うがままに行動し生きていた。それは鳥が空を飛ぶことの当たり前さと同じように、自分に与えられた生に疑問を持たず、ひたすらそれを全うすることに夢中になっているようで、そのためかその笑顔はおかしなことがあったから笑うのではなく、ただひたすら嬉しいから笑う、そんな笑顔だった。
 どれくらいそこにいたのだろう? 私はそこの人々の暮らしを見、いくつかの今にも崩れそうな家へも入ったが数日後には太陽がじりじりと照り始め、私はまた空へ戻っていた。空は相変わらず広く、私は風に流されながら世界中を見下ろして行くが、私は同時に時代の旅をする。人々の人生は私の一生にすればとても短く、あっという間だ。同じ場所に行ってもそれまでの文化が失われ、新たな文化が生まれ、支配者が代わり、私の記憶だけが置き去りにされている。それは孤独というのだろう。どうしようもない悲しみが深く突き上げてきては、この旅の終わりへと甘美な誘惑を掻立てるが、私の命はまだ先が長く、この旅に終わりはなさそうだった。
 ある日、太陽が話しかけて来た。そんなことはとても久しぶりで、私は最初聞き覚えのあるその声が誰のものだか分からなかった。
「君は自由でいいな。私は経度にそってしか地球を旅できない。上空から眺めているのが旅といえればだが…。動くのは私ではなく地球の方だ」
「それを言ったら僕だって風まかせ、自由とは言い難いね。しかし君は火星も月も同じように眺めることが出来る。その方が僕には羨ましいが…」
「確かに、私は色々な星を眺めるが、君のように人間の側で彼らの行いを見ることは出来ない。人間の喜怒哀楽、そうしたものが作り出す幸福感を感じることが出来ない。それはどんな星を眺めてみても今は地球の他にないものだ。かつて…そう、いつだったか忘れるほど昔には火星にもそのような幸福感が充満していたけれどね」
「ここにあるのは幸福感だけではないよ。人間の心はとても難しい。とくに一番たちが悪いのは喜怒哀楽の怒でね。時にはそれで簡単に同じ人間を死に追いやってしまう。ぼくはつくづく人間という生き物がよく解らなくなってしまうんだ。とても素晴らしい芸術を生み出すかと思えば、とても残虐にもなる。一体彼らはどうなっているんだろうね」
「それはまだ人間が発展途上だからだよ。彼らの持っている残虐さは少しずつ和らいで来ているんだ。彼らが夜空に打ち上げる花火はとても綺麗だが、あれは、もともと爆弾というものだったんだろう? 人間は戦争の道具でさえ芸術に変えてしまえるんだ。いずれ君の見た戦争だって、誰も傷つけず、むしろ誰もが喜び、幸福になってしまうような芸術に変えられるさ」
 そういうと太陽は西の空へ沈んで行った。私は暮れた空で彼の言ったことを繰り返し考えていた。人間の真の幸福、毎日少しずつ彼らはそれに近づいているのかもしれない。出来ることならこの旅が終わる前に、それを見てみたい、私はそんな風に思っていた。

幸福の中

 夜が明け始め朝焼けに染まり始めた私の体は、まるで地上に暮らす生き物たちのように赤みを帯びて、まだ眠る静かな街の上を通り過ぎて行く。朝日は穏やかに、しかし力強く遥か東の山間に見え隠れする空から浮かび上がっていて、夜の闇を剥がしていくようにこちら側の世界へ光を注ぎ込んでいる。それはまだ直視出来るほどの輝きでしかないが、あと数分もすると全ての生きとし生けるものたちに、その生を全うし幸福の限りを知れ、と激励するように黄金に輝き出し、真っ青に澄んだ空を天へと昇り始める。その様子は何度見ても生命の高揚を呼び起こし、この世に生を受けたことを心の底から幸福に思える—いや、そう思えなかったとしても、それは幸福であるのだと認識させられる光景だった。
 私は以前なら考えられないほどに高層化した摩天楼に、自分が貫かれるような思いで少しずつ日の射し込み始めたその谷間を見下ろしていく。まだ人気のない通りには強烈な朝日に焦げたようにビルの影が濃く伸びている。高いビルの東向きの窓々には朝日が反射し、それが小さな無数の太陽の分身となり、街の様々な場所に光を降らせていた。
 ビルとビルが隙間なく並びあった一角に、そこだけ広くビルの途切れた場所があり、早起きの人々が犬の散歩をさせたり、ジョギングをしたりして都会の喧噪から少しだけ抜け出そうとしていた。ちょうどその上空に差し掛かる頃、私はそこに小さな池を見つけた。その池に自分の姿が写し出されると私は風によって様々に変わる自分の姿が今日はどのようなものになっているのだろうと覗き込んだ。全ての生き物は自分の姿というものを持っている。美しくても醜くてもそれによって自分と他者を区別することが出来る。しかし私には自分の姿というものがなかった。私は風の気まぐれによって瞬間瞬間に形を変えていく。そして何と区別されることもなくただ流されてゆくのだ。だが私は私であり他の何者でもない。例えそれを知っているのが世界中で私だけであったとしても、私は自分が自分であり、ここに存在していることの幸福を太陽の光に照らされた具体的なもののように感じる。そして他者が私を認識することのない孤独も、その幸福の上に成り立っているのだ、と思う。不幸とは不在である。存在することは幸福の上に成り立つものだからだ。どのような災難があってもそれは幸福の中の出来ことであり、不幸などではない。
 凪いでいた風が吹き出すと、私はまた流されて行く。何処へ流されていくのか自分の意志とは無関係な旅。それは人生そのもののようだ。しかしその中で何を見、何を感じるかは全て自分次第であり、何処へ行こうとも自分であることは変えられない事実だ。

風は私を移動させ、そして姿も変えていく。今度見る自分の姿がどんなものであっても、私は私なのだ。