桜の返事

 太陽が地球のこちら側にとどまる時間が日増しに長くなり、春が本格的になってくるとあちこちで緑が芽吹き、今まで色のなかった世界が急に色付き始める。雨野さんは香り立つような春の空気を、全開にした車の窓から胸一杯に吸い込む。すると雨野さんの肺の中が暖かな空気で満たされる。彼はまるで吐き出すのが勿体無いというように、少しずつゆっくりと空気を吐き出した。
 通勤途中にある小さな公園の桜は雨野さんのお気に入りの桜だ。大きな桜ではないが花の色が淡く可憐で、彼はその脇を通る度に可愛い女の子にみとれてしまうように、その桜にみとれてしまうのだった。今年は例年よりも少し早く咲き出した公園の桜を、雨野さんは車の窓からやはり女の子にみとれるように眺めた。車ですれ違う少しの間だが彼は桜と会話をするように心の中で話しかけ、そして返答を聞くようにバックミラーに見送った。毎日の通勤時間、それは日課のように繰り返され、雨野さんは聞こえる筈のない桜の返事に耳を傾けていた。
 日増しに開いていく花の一輪一輪を観察しながら毎朝、雨野さんは雲工場へ向かった。このところの仕事は春らしく毎日晴れで、彼は作る雲ひとつひとつをかわいらしく、誰もが見上げてほっと深呼吸をしてくれるよう心がけて作った。実際それは何処にいても、空を見上げる少しの時間さえあれば、誰もがほっと一息ついてしまう雲だった。青い空の所々にそれまでの冬の重々しい雲とは違う、薄く棚引いた雲が浮かんでいた。
 良い天気が続き、桜は満開になっていた。日増しに増えていく花を楽しみに見ていた雨野さんは、それがとても嬉しかった。今日も良い雲を作ろう、彼はそう思って工場へ行き、浮遊粉塵を機械に入れ水蒸気と混ぜて慎重に空に浮かべていった。
 天気の良い日はそれからしばらく続いた。雨野さんは毎日桜にみとれ心の中で話しかけていた。すれ違った後にバックミラーに見送る満開の桜は、まるで彼を見送っているようだった。工場に着き、夜勤の多田さんに挨拶をする。多田さんはいつも事務の女の子が入れてくれたお茶を飲みながら機械と睨めっこしている。雨野さんは多田さんから仕事の引き継ぎをするため、今日の天気は? と聞く。今日は雨だよ、多田さんは今日の降水量を雨野さんに知らせた。そして、これからしばらく雨だね、と言った。そういうと彼は、後はよろしく、と言って帰って行く。週毎に決まる天気を示した表にはこれから一週間、雨が降り続くことが書いてあった。雨野さんはいつもよりも多めに機械に浮遊粉塵を入れ、そして水蒸気をたっぷり作った。雨雲は工場からどんどん空に広がり、雨はだんだん強まっていった。
 雨は毎日降り続き、公園の桜は次第に花を散らしていった。可憐だった花びらはびっしょりと重く湿り、すっかり色を失っていた。雨野さんはそれを見るのが辛かった。せっかく満開に咲いた桜の花を自分が散らしてしまっているのだと思った。仕事中も公園で濡れている桜を思うと彼は心が締め付けられるようだった。しかしある日の通勤時間、公園を通りかかると桜は元気に水を吸い上げていた。花は減り所々で枝がむき出しになっていたが、それは花が散っているのではなく、散らしいるような、桜の意思を感じる光景だった。今年よりも来年、さらに美しく咲こうとする桜の意思の強さがそこには現れていた。桜の花の終わりは、終わりなのではなく、始まりなのだと雨野さんは思った。車が公園を通り過ぎ、いつものように雨野さんがバックミラーを覗くと、彼の耳にどこからか、また来年、と聞こえて来た。

雨の日の出会い

 連日、春雨の降るほんのりと暖かい日々が続き、何日か前まで満開だった桜もすっかり花びらが水分を含みその重みで落ち始めていた。公園の地面に点々と落ちた花びらはもはや沢山の人々に踏みつけられ元の可憐さを失ってしまっていたが、その色が抜けて白みがかった花びらを一枚拾い上げて手のひらに乗せると、日向子さんは自分の手相を見るようにじっと見つめた。それは枝から離れてどのくらい経ったものなのだろう、淵の部分は僅かに茶色身が掛かり、花びらを通るうっすらとした脈が青白く見えていた。この脈の一本一本がまるで手相のように花びらの運命を決めているのだろうか? 日向子さんはそう思って、もしかしたらその脈のうちのどれか一本が自分を招き寄せたかもしれない運命について考えてみた。
 しばらくの間、雨の降る公園で日向子さんは傘をさしてじっと桜の花びらを見ていた。芝生に水を与える散水機のような小さな水滴の雨が傘を叩いている。そのほんの僅かな音だけがその公園にある唯一の音のように日向子さんの鼓膜に響き、そして次の瞬間には息を止めてよく耳を澄まさなければならないほど遠のいてしまう。
 ふと足下に目を移すと沢山の花びらが地面が見えないほどに重なり合っていた。まだ色の濃いもの、ほとんど色褪せて白くなってしまったもの、茶色身が掛かり既に枯れてしまっているもの、その全てがまるで誰かが意図して敷き詰めたモザイク画のような美しい調和で重なり合っていた。日向子さんは思わずまた何枚か花びらを拾い、とても大事そうにポケットにしまい込んだ。
 帰宅する道は年度末になるといつもほじくりかえされている古い道路で、そのせいで凹凸ができ、何日も降り続いている雨は自然にそこにたまるため、道路脇に排水溝があるもののほとんど役に立たず水捌けの悪い道になっている。いったいなんのためにそんなに工事が必要なのだろう? 日向子さんはいつもそう思うのだが、その都度なんの工事か確認しているわけではないので、やはりそれなりの理由があるのだろうとただ作業員の振るあの傲慢な赤い棒に従っているのだった。
 家に着くと日向子さんは一目散に本棚へと向かった。そこには昔買った重い国語辞典があり、日向子さんはその国語辞典を持ち上げると、つい口から出た、よいしょ、という言葉に苦笑いしながら、拾って来た桜の花びらをポケットから丁寧に取り出した。そしてティッシュの上に花びらを並べて国語辞典に挟んだ。押し花なんて作るのは子供の頃以来だった。何故そんな気になったのかよく分からなかったし、本当はまだ少ないながらも枝に残っていた花で作るべきものなのかもしれないが、桜の花びらを通る一本の脈が自分を招き寄せたのならば、その出会いを大切にとっておきたいような気がしたのだ。
 気が付くと外では雨が上がったようだった。雲が千切れてその隙間から光の柱が見えていた。それは雲間から地上に向けて、差すというよりは降っているように見えた。耳を澄ませばその音が聞こえて来そうだった。光は次第に強まり、やがてそこから晴れ間が出来て街の上に久しぶりに青空が見えた。
 日向子さんは窓を開けてだんだんに晴れていく空を眺めながら、部屋の隅に置いた国語辞典のことを考えていた。

空の始まり

 出勤中の運転する車の中で雨野さんは久しぶりに上機嫌だった。それまでも特に塞いでいたというわけではないのだが、今日はどこか気持ちが軽やかに上昇しているような、そんな気がして彼は満足げに頷いてみるのだった。
 まだ霧の出ている見通しの悪い道を、長年通い続けたせいですっかり覚えてしまった彼の記憶はたやすく走り抜けていく。空は見えていなかったけれど、何処かで鳴いている小鳥の声が、今日は晴れだというように明るい声で響いていた。少し急な上り坂に差し掛かると車はいかにも頑張っているというような大きな音を立てて、エンジンを回転させたが、雨野さんは辛抱強くゆっくりとした速度で車を走らせた。高度が高くなるにつれてそれまで辺りを覆っていた霧が薄くなり、次第に空の色が鮮明に見え始めた。霧がすっかり晴れると雲の殆どない空が工場の長い煙突を反射させて美しく現れ、まるで上り坂がそのまま蒼くまぶしい空へと続いているかのように見えた。 駐車場に車を入れると雨野さんは工場に入る前に上って来た坂道を振り返ってみた。坂道はしばらく下った所で再び霧に入り込み、それよりさらに下の方では太陽の光を浴びて銀色に輝き、形を持たない水の集合であるはずの霧が、何かとてつもなく大きな、意志を持った生命のように感じられた。
「おはようございます」工場に入りいつものように挨拶をすると、夜勤の多田さんは少し眠そうな目をしながら「おはようございます。天気がいいと暇だね」と大きなあくびと共に言った。多田さんは眠気を覚ますためにコーヒを飲んでいたが、それでも春の暖かな気温は多田さんを毛布にくるまれているような、心地の良い眠気へと誘っていた。
「じゃあ、後はよろしく」そう言って、眠たそうなのろのろとした動作で多田さんが帰って行くと、雨野さんは仕事の準備を始めた。
 物置から煙突掃除用のブラシを取り出す。今日はもう雲を作る必要がないので煙突の掃除をするのだ。
 工場の煙突には下にドアがついていて、雨野さんはそこを開けて煙突の中に入った。最初は真っ暗に見えるけれど目が慣れ始めると、遥か煙突の先端から入り込んだ光が、薄明るく回りを見渡せるほどに辺りを照らしていた。煙突の出口は長い平行線の彼方に隠れて見えなかったが、その闇はどこか暖かな闇だった。人の視覚から全て奪い取ってしまう暴力的な暗闇ではなくて、見えるものと見えないものの狭間にある不明瞭な何かをそこに現出させている、そういう種類の闇だった。 雨野さんは煙突の中を螺旋状に続く階段を上っていく。煙突の中を上昇すればするほど次第に光は強く、内部は明るくなってくる。ある所まで上ったとき、長い平行線の彼方でくっ付きあっていた壁が急に離れて雨野さんの目に空が飛び込んで来た。雨野さんはまぶしくて両手で目を押さえた。目蓋の裏が真っ白になってしまったように、目をつぶっても光が眼を刺して来た。しばらくしてまぶしさになれると、雲一つない澄んだ青空が見えた。それは遥か頭上の煙突の出口で雨野さんを待っているようだった。
 ようやく煙突の頂上にたどり着くと雨野さんはブラシを杖に一休みした。見上げていた時には煙突の出口が空に思えたのに、たどり着いてみると空はまだ上に高く広がっていた。空は一体何処からが空なのだろう? そんなことを考えながら息を整えると、雨野さんは煙突掃除を始めた。