雨の循環

 今日の天気は午後から雨。ちょうど太陽が空の一番高いところに差し掛かる時間。雨野さんは雨を降らすために大量の雲を作っている。彼は水蒸気と浮遊粉塵の量をいつもよりも増やして沢山の雲を作る。そしてその雲に冷たいドライアイスを吹き付ける。冷やされた雲は工場の煙突から空に上っていく。雲の中で、凍った水蒸気は互いにぶつかり合い、大きく成長する。そしてやがて重さを持つと、地上へと落ち始める。雨野さんが確認用の窓から煙突を見ると、雲は凍っているせいできらきらと輝いていた。上空で垂れ込めた雲は少しずつ雨を降らせながら街の方へ流れて行った。
 ようやく落ち着いた仕事にほっとして雨野さんは、深呼吸する。背もたれに背中をあずけて長い間計器類を見続けて疲れた目を指で優しくマッサージする。そこへ事務の女の子がお茶を運んで来てくれる。ありがとうございます、と言って雨野さんはそれを受け取った。お茶を啜りながら、彼は地面に落ちて来る雨粒のサァーッと言う音に耳を澄ませる。それは最初はサァーっと、ひとつひとつの音が重なりあって聞こえて来る。しかし耳を澄ませていると次第に、ポツポツ、チタンチタン、とそのひとつひとつの音が際立って聞こえて来る。そして雨野さんにはその音が、とても快い合唱に聞こえて来るのだった。
 雨野さんは、一粒の雨が空から地面に落ちるまでの短い時間のことを考える。それからその雨粒が地面に辿り着いて小さな音を立ててはじけ、地面に染み込んでいく様子を想像する。雨粒は地面に染み込むと、長い時間をかけて再び地上に溢れ出る。そしてそれは川になり、やがて海へと辿り着く。海水は雲工場で水蒸気を作るために使われる。この長い循環の最初に雨野さんはいる。そう考えると彼はこの世界の全てのものに不思議と親近感が湧くような気がした。
 突然、雨の合唱を裂いて、ピーッという音を立てて雨野さんの前の警報ランプが赤く灯った。雨野さんは慌てずに席を立ち、大きく口を開けた機械に布の袋から浮遊粉塵を入れる。警報ランプは消えて、ピーッ、ピーッ、ピーッと鳴り続けていた音も止まる。
 空に重く垂れ込めた雲は午後になったばかりだというのに、夕方になってしまったように太陽の光を遮っていた。工場長がその空の暗さを反影したような元気のない様子で部屋から出て来た。工場長は削減された分の雲によって減った収入に頭を悩ませていた。もともとこの工場は大きく、維持するだけでもそれなりの費用がかかった。工場長はしばらくの間ぼんやりしていたかと思うと、また工場長室へと入っていった。

 雨音は風の指揮で少しずつ強弱を付けながら鳴っていた。雨野さんにはその音が、雨が地面に染み込み、海に辿り着き、再び雲になるまでの長い旅の始まりの音に聞こえる。

雨宿り

 小熊さんは駅の軒先に置かれた小さなベンチに腰を下ろしている。郊外の友人のところへ、用事があって出掛けて来たのだった。しかし家を出る頃には降っていなかった雨が午後になってから降り出して、傘を持たずに出掛けて来た小熊さんは待合室もないような小さな駅の軒先で雨宿りしていた。
 雨は少しずつ強まっているようだった。目の前に出来た水たまりが次々と落ちて来る雨粒に波紋を広げながらどんよりした空を映していた。小熊さんが目を向けると小さな雨蛙がその中で気持ち良さそうに泳いでいた。
 車の交通量は結構あるのに人通りは疎らだった。小熊さんはふと思い立って駅の公衆電話へと向かった。友人には昼過ぎには着くと言っておいたのだが、この様子ではとてもその時間には行けそうもない。
 電話をかけると、一回、二回、三回目のベルで友人が出た。小熊さんは、雨でしばらく行けそうもない、と伝えた。すると友人は、迎えに行くからしばらく待っていてくれ、と言った。小熊さんは受話器を置きベンチへと戻った。雨は一向に収まる気配がない。それどころか強くなる一方で、雨粒が路面にぶつかる音はますます大きくなってきた。
 小熊さんはベンチに座り流れゆく雨を見ている。雨の日には何もかもが流れて行く。街に充満した排気ガスや塵が綺麗に洗い流されて行く。しかし小熊さんはその一方で幸福さえも洗い流して行く雨の非情さを思った。雨の降る日はいつも小熊さんにあの日のことを思い出させる。それは十年前の雨の日。
 その日は朝から止む気配のない土砂降りの日で、小熊さんは机に座り、今日何度目かの溜め息をついていた。何故か雨の降る日には溜め息が出る。胸の奥の深いところから込み上げるような溜め息だ。女性社員が入れてくれたお茶を啜って窓の外を見ていた時、電話が取り次がれた。小熊さんは何となく嫌な予感がした。電話に出るとそれは母からだった。電話の声は静かに父の危篤を知らせた。小熊さんは頭の中が雨の音で充満した。同僚の話し声やその他の雑音が突然聞こえなくなり、雨の音だけが小熊さんの頭の中で鳴っていた。
 病院に着くと父はベッドの上で仰向けになり呼吸器を付けていた。医者がその脇に望みの薄そうな顔で立っていた。母は何故か取り乱さず父の顔をじっと見ていた。いずれこうなることは分かっていたのだ。末期の癌で見つかった時にはどうしようもない状態だった。しかし小熊さんはそう思いながらも頭の中で激しくなって行く雨音に耐えられなかった。この雨音さえ止んでくれれば全て幻のように、父の容態も元通りになるような気がした。母が小さな声で父に向かって何かを話しかけていた。昏睡したままの父が微かに頷いたような気がした。ゆっくりと父から赤みがひいて行った。医者が父の死を告げた。小熊さんの雨音が止んだ。

 気がつくと友人が呼んでいた。さっきから呼んでいるのにどうしたんだい? と聞かれて、小熊さんは、ああ、なんでもないよ、と答えた。雨がしとしとと降っていた。

休日

 非番の日、雨野さんはいつもよりゆっくり目を覚ました。早朝を過ぎた空気は太陽に暖められてほんのり暖かかった。いつも布団から出る時間にはまだ少し寒さを感じるけど、この時間になれば空気は彼の肌に冷たいとげを刺して来たりはしない。雨野さんはお湯を沸かして引き立てのコーヒー豆にゆっくりとお湯を注ぎ込む。立ち上ってくる香りを胸の奥まで吸い込むと、眠気が少しずつ覚めて行く。何処かで小鳥のさえずりが聞こえる。床には窓から光が差し込んで日溜まりを作り、そこだけを他の場所から区切って暖かな空気で満たしていた。それは休日の朝ののんびりとした空気だ。入れたてのコーヒーを飲みながら玄関を出ると雨野さんはポストに入っている新聞を取る。大きな欠伸をしながら山の上を見ると、今日も雲は工場からもくもくと空へ上っていて、その光景に雨野さんにはとてもほっとする。ゆっくりと新聞に目を通すと彼は服を着替えて出かける準備をする。
 鍵を回すとオンボロ車はとても大儀そうにエンジンを回転させた。雨野さんはひとつの小さな雲を見上げると、今日はあの雲にしよう、と決めた。ふわふわした小さな雲が綿菓子のように東の空へと流れて行く。雨野さんはその雲をオンボロの車に乗り、ゆっくりとアクセルを踏んで追いかけて行く。平坦な道をオンボロ車は快調に進む。雲は少しずつ変形しながら風に流され、小さな山を越し始めていた。それを追いかけるように峠道へ車を入れると途端に車はがたがたと揺れながら速度を落とした。雨野さんはギアを下げ、アクセルを踏み込んで峠道を上る。勾配はどんどん急になり、道幅も狭くなって曲がりくねっていた。車はだんだん速度を落として行く。だが雨野さんは慣れた様子で運転している。そんなことはもう当たり前で、今まで何度も繰り返して来たのだ。車の速度はもう人間の早歩きと変わらないほどになっている。けれど雨野さんは根気よく、オンボロ車のアクセルを踏みながら、もうちょっとだ、頑張れ、と励ますように声をかける。すると少しだけ車は力強くなり、なんとか峠道を上り終えた。眼下には大きな湖が見えた。追いかけていた雲との距離は大分開いてしまっていた。
 道が下りになると車は重力に従い次第に速度を増して行く。雨野さんは殆どアクセルを踏まずにハンドルを切る。開いていた雲との差が少しずつ縮まり、道が平坦になる頃には雲のすぐ真下まで近づいていた。
 大きな湖沿いの道をゆっくりと走って行く。雲は先程から殆ど進まず雨野さんは何度も追い越してしまいそうになる。しかしオンボロ車にはそれも快適な速度だ。後続車が何台か迷惑そうに距離をつめてきたけれど、雨野さんはその度に車を道の端に寄せて肝心の雲を追い抜いてしまわないようにする。湖の水面では太陽の光が戯れている。きらきらと反射して空へ戻って行こうとしているようだ。空には幾つもの雲が、まるで止まってしまったかのように張り付いている。この湖の上空で雲たちはいつも速度を緩める。それはまるで湖に自分の姿を映し、その素晴らしさに見とれているようだ。雨野さんの追いかけてきた小さな雲も、湖の上で静止したように浮かんでいる。雨野さんは湖の駐車場に車を止め、それを日が暮れるまで見ているのが好きだった。

路地

 いつもならまっすぐ行く道を何故か今日は曲がっていた。そのまままっすぐに行けば三分もしないうちに職場に着き、退屈ではあるけれどやる気のない店主のおかげで一日中本を読んでいられる雑貨店の店番を、昨日までと変わらず勤めることになっていた。シャッターを開ければ後は一日に数度、気まぐれに委せて初めて入って来るような客の相手さえしていればいい。しかし芙美子さんは駅からまっすぐに続く人の流れにはじかれたように一人だけ、誰も曲がろうとはしない角を曲がった。店は午後からでもいい。店主はやる気がなく、午前中店を開けなかったからといって文句を言ったりはしない。
 そこは狭い路地だった。ビルとビルの間に出来た歩くためではなく、二つのビルを別々のものにしておくための空間。本来二つのものを別々にしておくためだけに生まれた空間が、ついでのように道にもなっている。芙美子さんは今この路地と同じように、自分が本来の役割のついでに生まれてしまった惨めな存在に思える。自分は世界と人々の間に生まれた狭い路地のようだ、と芙美子さんは思う。そのどちらとも上手く折り合いをつけられずにいる。
 まだ空の頂上まで上りきらない太陽はこの谷間に薄い光を投げている。あちこちに暗い影が淀んでいる。芙美子さんはその中を進んで行く。路地の向こうは眩しい光が差して白く輝いている。光が霧のように辺りをぼやかしているのでそこに何があるのかはまるで分からない。ほんのつかの間、芙美子さんは引き返そうかと考えた。薄暗い路地にはなんのためらいもなく入ったのに、この路地が何処へ通じているのか、ふと恐くなったのだ。しかし芙美子さんは前進する。誰も利用することのないビルとビルの間の狭い空間。その行き着く先を知り、せめて自分だけは、この空間に「道」としての役割を与えたい、そう思った。すると急に目の前がひらけて広い公園に出た。それは何度か来たことのある公園だった。しかし自分が毎日通っていた道とこんな風に繋がっているとは知らなかった。公園には小さめの池があり、池の周りでは澄んだ冷たい空気が日光に暖められた空気と踊っているように、風に吹かれて交じり合っていた。芙美子さんは落胆したような、ほっとしたような複雑な気持ちで池を眺めた。色彩鮮やかな鯉が顔を出して水面から何か話しかけて来る。それは芙美子さんにはまったく解らない言葉だ。けれど芙美子さんはじっと口元を見つめてみる。池の水面のちょうど鯉の口の辺りに小さな雲が映っていた。鯉はぱくぱくとそれを食べているようだった。芙美子さんは空を見上げてみる。鯉が食べていた小さな雲が青い空に浮かんでいた。それは何処かで身だしなみを整えてきたように美しい雲だった。広い青空を風に吹かれながらゆっくりと進んで行く。
 芙美子さんは暗い路地を戻っていた。さっきまで、何処か別のいつもの日常とは違う世界に行きたい、と思っていたのに芙美子さんは今、軽い足取りで職場へと歩いて行く。すると急にビルとビルの間の深い谷間に太陽の光が射してきて、狭い路地の全てが美しく照らし出された。空を見上げると上空でくっ付きそうになっているビルの平行線の小さな隙間に眩しい青空が見えていた。
 薄暗く陰気だった路地は今、大通りの雑踏と静かな公園を繋ぐ芙美子さんの秘密の道になっている。路地とはありふれた日常を世界の様々な場所へと繋げているのだ。