曇り空、どんより
世界の果て、というほど人々の街から遠くない。けれど少し人々の住む街から離れたところに雨野さんは住んでいる。少し痩せた四十恰好の中年男。
まだ太陽の出ない早朝、彼は今目を覚ましたところだ。うるさく鳴る目覚まし時計を止めて布団の中で大きく深呼吸すると、春になりかけの、しかしまだ冬の空気が残ったひんやりした部屋の中で吐く息が白くなる。それは彼の目の前で小さな雲のようにたなびいて冷えた空気と混じり合い、すーっと幻のように消えていった。
雨野さんはベッドから起き上がりリビングに行くとストーブに火をつける。マッチを擦ると、夕べのうちに杉の葉と小枝、その上に薪と順番よく並べておいたストーブの中に放り込み、しばらくの間、注意深く眺める。一番最初に杉の葉に火が着いてストーブは燃え始め、彼はそれを確認すると台所に行きコンロに薬缶を載せてお湯を沸かす。そしてお湯が沸くと少し濃いめにコーヒーを入れて、それを飲みながらトースターにパンを入れ、目玉焼きを焼く。
芳ばしく焼けたトーストにバターを塗って口へ運ぶと、雨野さんはもぐもぐと咀嚼しながらコーヒーを飲み、うっすらと白み始めた窓の外を眺める。空には光の弱まった星々と、夕べのうちに夜の闇を染み込ませてしまったような黒い雲が、どこかもの悲しい冬の夜明けと、美しい希望に満ちた春の朝の中間で、音も立てずに—それは音を立てずにいるのが嘘のような光景だった—浮かんでいた。彼は視線を目の前に戻すとまた深呼吸をする。ストーブが部屋を暖めて吐く息はもう白くならない。
朝食を食べ終えると雨野さんは仕事へ行く準備をする。彼は町の外れにある工場で働いている。工場までは車で十分程の距離だ。エンジンをかけると少し古い所々がへこんだ車はとても気怠そうな音を立てる。排気口から出た煙がふわふわと空中に漂い出すと、それは空気の中に薄まって消えて行く。まるで車の吐いた溜め息のようだ。
通勤路は少し急な上り坂でオンボロ車はエンジンを激しく回転させ、大きな音を立てながら山道を上って行く。その頃になると夜はもう完全に明けていて、東の空には力強い太陽の輝きが西の空の闇をも追い払って地面まで降り注ぎ、朝露に濡れた緑の絨毯を乾かしている。
山道を上りきると突然、今までの何もなさが嘘のように工場が現れる。雨野さんはゲートを通って駐車場に車を止めると工場へ入る。中では夜勤の多田さんがお茶を飲んでいた。
「おはようございます」と雨野さんが後から声をかけると、多田さんは振り向いて「おはようございます。今日も寒いね」と湯のみを包み込むようにして温めていた手を挙げた。
二人は軽い引き継ぎをして、仕事の内容を確認する。
「今日は曇りだよ」多田さんが石油ストーブの前で手を擦り合わせながら言う。
「どのくらいかな?」と雨野さんは聞く。
「どんより、だね」
「どんより。了解」
引き継ぎを済ませると多田さんは帰り支度を始める。お茶を飲んでいた湯のみを流し台に片付け、黒い肩掛け鞄を掛けると「じゃあ、後はよろしく」と言って帰って行く。
雨野さんは計器類の確認をしながら今日の仕事の内容を実行して行く。曇り空、どんより。これが今日の仕事だ。彼は排出する水蒸気の量、浮遊粉塵の量、これを調整してどの程度の量、どの程度の高さに雲を浮かべるのかを決める。少しでもバランスが崩れると全て台無しになってしまう。雨野さんは慎重に調整していく。とても壊れやすいものを扱うような手つきで目盛りを調節する。
工場の煙突から雨野さんが慎重に作り出した雲が世界中にもくもくと広がって行く。
「曇り空、どんより」雨野さんは復唱した。
傘を持って
藤枝さんは茶の間で炬燵に入り、雲のたれ込めた空を穴があきそうな程見つめている。炬燵の上に置かれた蜜柑の皮を剥いて口に運びながらも、視線はずっと空に据えられている。雨が降らないだろうか? 藤枝さんはそれが気になっていた。藤枝さんは茶の間の隅に置かれた仏壇に目を移す。もう何度その視線の移動を繰り返しただろう。
妻が亡くなってからもう四年が経っていた。自分が定年退職をした翌年、もともと身体の弱かった妻は風邪を患い、長い間苦しそうに咳き込んでいたと思ったら、風邪の菌が心臓に入り込んで心不全を起こして逝ってしまった。
子供も作らずに夫婦二人だけで暮らして来た。もっと生きているうちに何かしてやれたのではないか? そう思うと藤枝さんは四年経った今でも深い後悔に苛まれる。遺影の笑った妻の顔。藤枝さんはその写真を撮った日のことを今でも覚えている。
長年働き詰めだった藤枝さんは定年になる前の年、偶然とれた休暇に妻と温泉旅行に出掛けた。たった一泊二日の旅行だったけれど、彼なりの感謝の気持ちだった。
それはちょうど雪が雨に代わる季節のことで、あいにく旅行中は雨が降っていた。二人は傘をさして温泉街をぶらぶらと歩いた。写真の妻の手にも傘が握られている。それは妻がいつも使っていた傘で、色気も無く地味な傘だったけれど、彼女は何故かその傘を長い間大事に使っていた。
傘は今でも玄関脇の傘立てにささったままになっている。しかし妻が死んでから、藤枝さんはその傘には目を触れないようにしてきた。それを見るたびに妻の様々な思い出が蘇って来る気がしたから。旅行だって定年になってからだったら好きなだけ行けたのに、と藤枝さんは思う。
空はどんよりと曇って晴れ間はひとつも無い。ふと立ち上がり藤枝さんは、ながしから湯のみと急須を持って来る。炬燵の脇に置いた魔法瓶からお茶っ葉を入れた急須にお湯を注ぐ。そして急須から湯のみにお茶を注ぐ。
二つ目の蜜柑に手を伸ばしながら藤枝さんは雨が降って欲しいと思う。遺影の妻を見ていたら彼女の握った傘が長い間、玄関脇で放置されていたことに、そして無意識にそれを見ないようにして来たことに気が付いたのだった。もし、今日雨が降ったらあの傘をさして出掛けよう。藤枝さんはそう心に決めていた。何処へ行くというあてもないけれど、妻の傘をさして何処かへ行こう。そう思うと、それがとても素晴らしい思いつきのように感じられるのだった。
どんよりとした曇り空に藤枝さんは、雨よ降れ、と念じ続けている。
雲の削減
雲は人々の住む街から少し離れた小さな町の工場で作られている。
工場は煙突からもくもくと雲を吐き出しながら、広い空へと雲を散らして行く。
雨野さんはその工場で働いている。いくつもの計器を確認しながら雨野さんは雲を作る。雲は浮遊粉塵(エアロゾル)を核に水蒸気が凝固することで出来上がる。彼はその二つをうまく管理して雲を作る。そして気温をコントロールして空に雲を浮かべる。
*
昼食の時間、雨野さんはずっと睨みっぱなしだった計器類から目を離して、工場支給のお弁当を食べる。石油ストーブの上でシュンシュンいっている薬缶のお湯でお茶を入れる。テーブルの向かい側に工場長が座っている。工場長はさっき、街の天候を管理している天候管理局から帰って来たばかりだ。
雨野さんは工場長の分もお茶を入れる。「ああ、すまないね」と工場長が言う。彼はいつになく渋い顔をしている。お茶を啜ると工場長が「いや、参った…」と独り言のように呟いた。「どうかしましたか?」と雨野さんは尋ねる。工場長は苦虫を潰したような表情で答える。
「いや、来月からうちの雲の生産量を少し下げろというんだ」
「何故です?」
「ほかの工場の生産量を上げるから、その分うちの生産量を減らすそうだ」
雲の生産量は一月あたりどの程度ときちんと決められている。雨野さんの働く工場はこの辺りの雲工場で一番の生産量を占めている。天候管理局はその生産量を削減するようにと言ってきたのだった。雲工場で雲の生産量が減ることは収益が減ることを意味する。工場長はそのことで頭を悩ましているのだった。
雨野さんは工場長を慰めようと思った。けれど適当な言葉が見つからずに黙っていた。工場長は俯いて何ごとか口の中で呟いていた。少しの時間沈黙が続いた。
工場長はさっと立ち上がると重苦しい息を吐き出して工場長室へ入って行った。雨野さんはお弁当のおかずを一口食べる。味がよく分からなかった。確かに食物を食べているのに何故かその自覚が持てなかった。彼にしてみれば雲の生産量が減ること自体は直接的ダメージではない。しかし自分が毎日作って来た雲の量が来月から減るのだと思うと悲しかった。
毎日、雨野さんは雲を作ることに誇りを持っていた。街の空に浮かんでいる雲の多くが自分の手で生み出されている。その雲が雨や雪を降らせ人々の暮らしを彩っている。それは彼にとって何よりも誇りだったのだ。それが来月から減る。そのことが少し悲しかった。
やがて休憩時間の終わりが来て雨野さんはお茶を飲み干すと、仕事に戻った。今日の天気は晴れ。雲の量は適度に青空に浮かぶ程度。ちょうど人々の想像をかき立て、あれは何かの形に似ている、などと想像させるような雲を街の空に浮かべて行く。
時間割
澄江さんは込んだ電車の中で吊り革を握っている。前後左右に人がいて身動き一つとれない。通勤ラッシュの電車には毎日乗っていても慣れるものではない。電車がカーブに差し掛かると遠心力によって吊り革を持った人々の手が同じような半円を描く。澄江さんは今日こなすべき予定を頭の中で反復している。出勤してタイムカードを押してからいくつもの仕事を片付けなければならない。一時間ごとにすべきことをまとめて行く。子どもの頃は誰かが考えた時間割があり、それに従って行動すれば良かった。しかし大人になれば一日の時間割は自分で考えなくてはならない。
電車がスピードを緩め停車した。澄江さんは狭い人の間を縫って電車から降りる。ホームを渡り改札を抜けると大きなビルの林立する街を歩く。空は晴れているけれど澄江さんは天気のことなど気にもかけないで歩く。そして林立するビルのうちの一つに吸い込まれるようにして入って行く。
すれ違う人に会釈をし、顔見知りの人には、おはようございます、と声をかける。それから人を満載したエレベーターに乗って五階で降りる。いつも自分が働いている机に座ると澄江さんは電車の中できちんと考えて来た時間割通りに働き始める。
毎日同じことの繰り返しだ、と澄江さんは思う。ひとつの仕事が終わり、新しい仕事が始まってもすることは特に変わらないのだ。出す結果が違っても澄江さんのする仕事の内容はかわりばえしない。同じような数字を計算し、それを見て誰かが頷いたり首を横に振ったりする。もちろんその時々で扱わなければならない数字は変わって来るし、見せる相手も変わるのだけれど。澄江さんは自分が意思を持った電卓になった気がする。あっちを計算し、こっちを計算する。時々お茶を汲む電卓。
時間割は予定通りには進行しない。予期しなかった新しい仕事や、気の利かない誰かのやり残した仕事が澄江さんの机に載っかって来る。時間割はそこでずれ込み、今日の分が明日へ持ち越される。
澄江さんは、もういくつのことが明日へ持ち越されたのだろう、と思う。仕事だけではなく人生においても。
*
日曜日の朝、澄江さんは前日目覚ましを止めておいたのに同じ時間に目が覚めた。体に染み付いた時間割は澄江さんを寝坊させてはくれない。もう一度寝ようかとも考えたけれど、目を閉じてももう夢の続きは見れそうになかった。子どもの頃の夢。故郷の広い公園でブランコを漕ぎ、ジャングルジムに上り、大きな声を上げて笑っていた時代。空がとても大きく、のんびりと白い雲が泳いでそれが鯨や象やそのほか様々なものに見えた。緑はそこら中で太陽を反射させ、大きな木は涼しい日陰を作っていた。
澄江さんは目を開けるとゆっくりと起き上がりカーテンを開いた。眩しい光が入り込んで一瞬何も見えなくなる。眼が徐々に光に慣れて様々な物が見えて来る。空は晴れていて白い雲が優雅に泳いでいた。澄江さんは、今日の予定は、と一瞬考えかけて止める。今日は時間割を作らずに過ごそう、そう思い深呼吸をすると、深々と吸った空気が肺の中を満たし、心の中も満たす。ゆっくりと吐き出した息は初春の寒い部屋の中で白くなる。
遠くで雲がポツンと浮かんでいる。それはどこか、子どもの頃に見た象の形をした雲に似ていた。











