夏の別れ〜のちの思いに〜2009/06/28
すっかり夏の暑さが定着して気温は三十度近くまで上がっているので、部屋の中ではずっと扇風機が左右に首を振っているのだが、それを凝と見ていると何かをずっと、いえいえ、と否定しているように見えてきて、私は思わず横に寝そべってみた。すると横に動く扇風機の首がちょうど縦に、うんうん、と頷いているように見えてきて、私は満足して起き上がり、しばらく扇風機の風の行方に合わせて部屋を行ったり来たりしては、散らかし放題の部屋の小物に躓いたりしていたのだが、こうも暑いとそれも長く続かず、私はただうなだれて座り込み、ふう、とため息とも深呼吸ともつかない大きな息を吐き出した。
窓から外を見ると空には山脈のような入道雲が浮かんいて、それからはぐれるようにして小さな雲が街の真上を流れていた。一日中読んでいた本はもうほとんど終わりに差し掛かっていて、一冊の本の読み終わりが、時に親しい人との別れのように寂しく思えるものだ、ということを私は感じていた。その本の読み終わりの寂しさを暑さによる倦怠が手伝って最後の数ページはなかなか読み終わらなかった。そうしているうちに外では日が傾いていき、黄昏時の薄暗い光が電気を点けていない部屋の中で、様々なものの影を長く伸ばして不気味な形に広げていた。私は何となくこうした夏の様子が懐かしく思えて、今ではすっかり水の底に沈殿した澱のように、記憶の底の方に眠っている思い出を蘇らせてみるのだった。
日中の暑い日差しがやわらいで日が暮れ始めると、私は閉じこもっていた家から庭に出てみる。昼の間は何処へ行くのか、全く鳴き声の聞こえなかったヒグラシのはじめの一匹が勇気をふるったように、カナカナカナと鳴き出すと、そのやまびこのようにして続いて沢山の声が聞こえてくる。それは次第に大きくなって途切れのない歌になり、やがて大合唱へと変わっていく。故郷ではヒグラシの声が聞こえだすとそれは昼間の暑さが弱まった証拠で、夕方から夜にかけて涼しい微風が吹いてくる合図だった。私はよくそんな時間を選んで散歩をしたりしたものだった。
明かりを付けていない部屋に、窓の外から差し込んでくる弱々しい光が、ヒグラシの鳴き始める時刻のものと似ていたので、私は思わず耳を澄ましていたのだけれど、東京ではヒグラシの声は全く聞こえてこなかった。手に取り直した本をパラパラとめくっていると本はついに終わってしまい、それがとても寂しい別れに思えた。そんな風に思えたのは、その本が作者の最後の文章だったからだろう。
と題されたこの本は一九九八年の十月から九九年の九月まで日本経済新聞に掲載されたものをまとめたもので、作者の辻邦生は九九年の七月に没しているため、死後に発表された文章もあるのだが、この本の中の辻さんは他のどの作品よりもいきいきと生きていて、私はどうしてもこの本を読み終えるのに戸惑わざるを得なかったのである。大学生時代から留学時代を経て文学者として立っていくまでの、言わば青春の時代を描いたこの作品は、これまでのどのエッセイよりも辻さんの人生が正直に書かれていて—所々に創作が混じっているとしても—私にとって憧れでしかなかった人物が、やはりスーパーマンのような超人ではなくて一人の人間なのだと感じさせてくれた。それでも、いろいろな場所でまるで導かれるように文学に接近していく様子は、やはり何かに選ばれた人なのだと思ってしまうのだけれど。
最終回の原稿を執筆している途中で亡くなってしまったので、この本は本当は終わっていないのだけれど、そのせいか、私はこの続きを考えている辻さんが永遠に存在しているような気がしている。