軽井沢に

軽井沢に行って来ます。
辻邦生さんの奥さん、辻佐保子さんと建築家磯崎新さんの対談、とっても楽しみ!
白糸の滝も見てこようと思います。軽井沢、初めてです。

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本と出会う時

先々週購入をためらった本を、やはりどうしても手に入れたくなり再び神保町の風光書房へ。書店内に入ると急に腹痛が起こり、その本のあった場所の記憶が曖昧だったために脂汗を流しながら本棚中を探した。無くなってしまったかと思ったがようやく見つけて安堵。

本との出会いには二種類がある。その場で運命を感じてしまうものと、読んでいくうちにその本と出会って良かったと思わされるもの。今日買った本は前者で、ぱっとページを開いた瞬間に、この本は自分にとって大切な本になるに違いないと思った。そう思ったのに最初に買わなかったのはこの本が古書であるのに2000円という高値だったため思わず怯んでしまったのだった。しかし時間が経つにつれて手に入れなかったことを後悔しだし今日買いに行くことになった。山室静『植物的生活から』。ついで300円だった庄野潤三『丘の明り』を購入。

ところで読んでいくうちにその本と出会って良かったと思わされたのはこれも神保町で手に入れた渡辺一夫『人間模索』。この本は本当に座右の書と言ってもいい。自分の考え方に大きく影響を与えてくれた。この本も薄い文庫なのに800円もした。

帰りに蕎麦を食べて、電車を北千住で下車し東急ハンズで便箋と封筒、それからずっと欲しかったマイ箸を買った。最後みはしでクリームあんみつを食べる。みはしのクリームあんみつは本当に良く出来ていると思う。ソフトクリームとあんこと黒蜜という個性派を見事に調和させている。

朝顔の思いで

 早起きして散歩に出ると朝顔の花が街の背の高い建物を越して出て来たばかりの朝の日差しに照らされて一筋の皺もない程ピンと咲いていて、その美しさに私はまだ寝惚けている頭を優しく揺り起こされているような気持ちになっていた。朝顔なんて見るのは何年ぶりだろうと記憶の引出しを引っかき回して思い出そうとしてみるのだが、私の記憶は何故かそれよりもずっと以前の小学校の夏休みに育てた朝顔のことを思い出していた。
 毎日水をやりその日の天気を確認していつ花が咲き、いつ種子をつけたか日記につけておくこと、そんなことのすべてが宿題だったことを思い返してみると、少し冷めた気持ちになってしまうのだが、しかし毎日朝顔を観察するようなことはなくなってしまった今となっては、そんなことがとても懐かしく思える。
 緑色のプラスチックのプランターに、同じ緑色の伸びたつるを支えるための支柱があって、その支柱に絡み付いて一日毎に驚くほど成長していく朝顔に、私は飼い慣らすことの出来ない自然の旺盛な生命力を見たような気がした。いや、それはもしかしたら生命力というよりも、むしろ生きることへの強い欲望と言うべきだろうか。朝顔は一瞬一瞬、瞬間毎に自分の生命をひたすら確かなものにしようと必死になっているようだった。
 目の前にある朝顔が僅か一瞬で蘇らせた過去の記憶を、私は季節の終わった衣服をたたんで箪笥にしまうように記憶の中にしまい込んで、太陽が昇るにつれて少しずつ影の減ってきた道をまた歩きだしていた。

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図書館、ドッグラン

八月十七日(月)、午後図書館に行く。
借りた本、山室静/老いの気晴らし、ピエール・ガスカール/けものたち・死者の時、渡辺一夫/曲説フランス文学(再度借りた)。

疲れたコーギー

夕方、S公園のドッグランへ。デュークは大興奮で公園に着く前から鼻を鳴らしていた。バーニーズマウンテンドッグ、ハスキー、黒い大形犬(犬種不明、帰宅後調べたところペルジアン・グローネンダールというらしい)など、とても大きい犬が多くてデュークが小さく見えた。疲れたのかコーギーが地べたに寝そべっていた。そういえばデュークはこのコーギーのように両足を開いて寝ることが出来なくて、いつも両足を横に投げやった状態、いわゆるセクシーポーズ(?)で寝ています。

狂信と寛容〜ガリヴァー旅行記〜

『ガリヴァー旅行記』を読みました。何を今更と思われる方もおられるでしょうが、何故か今まで縁がなく読む機会に恵まれなかったのです。けれど『ガリヴァー旅行記』は原作をまるまる読んだことはなくても、子どものころに絵本などで知っていて、小人や巨人が住んでいる国、空飛ぶ島、馬が治めている国などが出てくるのは分かっていました。しかし改めて今、大人になり(私が一般の常識と照らし合わせて大人と言えればですが)読んでみますと、そのようなファンタジー的要素はただの手段に過ぎず、そこに込められた作者スウィフトの意思がこの物語をただの冒険物語ではない、物語として一段深いものにしていることに気付きます。それは当時(初版が出たのが1726年)と現在の状況を鑑みましても、人間の深い部分に潜んでいる危険な動物としての性質には変化がなく、従って現代におきましてもスウィフトの言葉は十分に我々の胸を打つに足る文章と言えましょう。

それはつまり「狂信と寛容」と言うことが出来るでしょう。この言葉は仏文学者、渡辺一夫氏がその著書『曲説フランス文学』で仰っていたことですが、自分の信じているもの、あるいは自分自身を正しいと信じて行動をすることは人間誰しもあることです。しかし人間は自分(または信仰しているもの)が正しいと信じるあまり狂信に陥りやすいということです。狂信に陥れば最後、他のものは一切が糾弾すべき対象になり、そのせいで人間同士が殺し合うに至ったということも過去の歴史を見ると珍しいことではありません。

しかし人間にとって一番必要なのは何が一番正しいのか、その唯一のものを決めることではありません。全ての人が寛容になり、自分以外の意見や主張を認め合い、場合によってはそれを止揚し、より正しいものにしていく。こういったことが人間にとって大切なことではないでしょうか。スウィフトは理性のある馬、フウイヌムの国で過ごしたガリヴァーを最後、人間の醜さに絶望させます。フウイヌムは個体ごとに特別な愛がなく、その死も悲しんだりしません。子どもは特に自分の子でなくても、足りなければ(この国では雄雌一頭ずつ子を育てる)よそから貰い受けたり、雄二頭が生まれてしまったら、雌二頭のいる家と交換したりします。いくら理性があり、その行動が正義に貫かれていても、他者に対する愛がなければそれは欠陥なのではないかと私は思います。

スウィフト自身は一体どうだったのでしょう? 人間が人間に絶望してしまえばそれで全てが終わってしまいます。人間は理性(愛と言い換えてもよいでしょう)に基づきこのような絶望から抜け出せるのではないか? それだけが人間を完成へと導いていく唯一の考えだと私は思います。