WATER WAVE

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2010/3/7 Compos

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Untitled

 いつか、と思っているうちに時間は過ぎ去ってしまうものだ。僕には今まで、沢山の書かなければならなかったことがあったように思う。しかしそのどれも僕は書かずにやり過ごしてしまった。それはいつも頭の中で言葉にされるのを待ち望んでいるのに、一言も、ただの一語も、僕は言葉にしなかった。そのことを悔やんでも今ではもう手遅れだけれど、今、僕はここに、僕の頭の中で言葉にされるのを待っているひとつひとつを書く。それは誰の目にも触れないかもしれないが、言葉の子どもたち—頭の中で言葉にされるのを待っているもの—がただ死んでいくよりは、とても意味のあることだろう。たとえ酬われることのない愛情でも、それを持つものにはとても重大な価値があるのだ。
 ある朝、なんの前触れもなく始まったことが、まだ始まったとすら認識していないことが、自分を知らず知らずのうちにどこかへ運んでいってしまう。それは明確にどの瞬間、と振り返ることの出来ない、ある朝—あるいはある夜—としか言うことの出来ないとても曖昧な瞬間なのだけれど、しかし全てはそこから始まったのだ。僕は自分の小さなアパルトマンの一室で殆ど本に埋もれながら、しかし実際には一冊の本も読まずに過ごしていた。ちょうど手に取りやすい場所にある本を一冊持ち上げては目を通してみるのだけれど、すぐに文章がただの線の重なり合いに見えて来て、僕は本を投げ出してしまうのだった。外からは様々な音が聞こえて来たけれど、その音も殆ど耳に入ってこなかった。視角や聴覚といった感覚がなくなってしまったかのようだった。正確には視角も聴覚も働いているのだが、判断力のなくなった頭がそれらをなんの選別もなしに取り込んでしまうので、良いも悪いもなくなってしまい、ただ色や音が区別なくに頭の中に氾濫していた。距離感すらもおかしくなっていて、もう「ここ」と言えるくらい限りなく近い場所がとても遠く、行ったこともないような遥か彼方がとても近いように思えた。それは宇宙が始まって以来の時間を全て経験して来たかのような感覚で、その感覚からは恐竜もローマ人も同じようなものだった。
 僕はふとテーブルの上でクシャクシャになっている紙切れに眼をとめた。それは図書館で借りた本の返却期限が書かれた紙だった。「我に返る」という言葉はまさにこのような時に使うのだろう。時間という概念の中では一瞬であったけれど、木々が地中から吸い上げた水を枝の先まで行き渡らせていくような、とてもゆっくりとした速度で、僕は自分が知覚を取り戻していくのが分かった。すでに何を借りたのだか忘れていたが、それはプルーストの『失われた時を求めて』だった。もっと正確に言うならば『失われた時を求めて』の第一巻『スワン家の方へ』である。長大な物語の第一遍となるこの『スワン家の方へ』には、この物語の主人公である「私」がマドレーヌをお茶に浸して食べたことから過去の記憶をよみがえらせるシーンがあるのだが、テーブルの上でクシャクシャになっていた紙のおかげで、僕はこの本を今日中に返しに行かねばならぬことに気付いたのだった。「私」が記憶をよみがえらせていく速度もこんな風なものであったろうか、と僕は思った。

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季節のシーソー〜正弦曲線〜

正弦曲線

 季節はまるで子どもの頃遊んでいたシーソーのように変化していく。一方が足で地面を蹴って重みの支点からずれると、すっと持ち上がり、また一方が足で地面を蹴ると、そちらがすっとが持ち上がる。そんな遊び方に飽きるとお互いに足を浮かせたまま平均を保ち、シーソーが傾いてしまわないよう静止させてみるのだが、これがなかなか難しく、細やかな体重移動を少しでも間違うと、シーソーはすぐに一方へ傾き始める。しかしほんの少しの傾きならばまだ修復の余地はある。けれどその危うい重みの支点からついにずれてしまうと、シーソーはいとも簡単に傾いてこの遊びは終了となってしまう。季節の変わり目はまるでこの遊びのようではないか。ほんの少し夏が秋へと傾いたかと思うと、今度は秋が夏へと傾いていく。その繰り返しが何度か行われた後、ついには秋が、どすん、と音を立てて着地する。そして再びシーソーを漕ぎだそうと、地面を蹴ってみてももう相手側は不在で、どうあがいても、自分が浮き上がることはないのである。
 私は子どもの頃、サッカーや野球という運動よりも、地味な遊具に夢中になっていた。そして一瞬の無重力を感じさせてくれるシーソーは中でもとりわけ好きな遊具だったのだが、周囲の友人は初めは快く付き合ってくれるものの、校庭でサッカーが始まったりすると、途端に私を置いてけぼりにしてそちら行ってしまうのだった。相手のいなくなったシーソーの孤独感は切ないものである。いくら地面を蹴ってみてもそこに無重力の快感は生まれず、自分の重みのみが強調されて行くばかりだ。この頃は夏が去り、秋はこの孤独を噛み締めているのではないだろうか。
 シーソーの動きは無重力も生むが、その動きは0を軸にしてプラス1とマイナス1の間を行ったり来たりする、サインウェーブ、正弦曲線のようでもある。婦人公論に約二年渡って連載された堀江敏幸さんの『正弦曲線』の中で堀江さんは「なにをやっても、一定の範囲で収まってしまうのをふがいなく思わず、むしろその窮屈さに可能性を見いだし、夢想をゆだねてみること。正弦曲線とは、つまり、優雅な袋小路なのだ」と述べている。絶えず変化のない状況ではあるけれど、しかし直線的に変化しないのではない、一定の降り幅を行ったり来たりする、思考の、生活の、人生のバイオリズム。その曲線に身を委ねて書かれたこの作品は、著者特有の浮遊感のある文章によって、とても心地よいテンポで進んでいく。絶えず同じ幅で揺れながら続いていく正弦曲線はシーソーのような無重力さえ生むのだ。

ワンワンマッサージ大繁盛

ワンワンマッサージ大繁盛

シルバーウィークでS公園のドッグランには普段以上に沢山の犬たちが集まっていました。寄って来る子の背中を揉んでいたら囲まれてしまい順番待ちまで…。

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言葉と抑揚〜文章読本〜

中村真一郎『文章読本』

 口から出て来る音がどのようにして意味を持ち始めて言葉として機能しだしたのか、きっと初めは幾通りかの抑揚があっただけに違いない。しかしそれは言葉というよりは他の動物たちも使っている鳴き声とさほど変わらぬものだったろう。しかし我々人間の祖先は、そのいく通りかの抑揚で仲間に対して迫り来る危険を伝え、己の喜怒哀楽を伝え、そして時に愛を伝えたことだろう。文章というものは言葉の成立と密接に関係している。なぜなら言葉が記号化されたものが文字であり、それを連ねたものが文章だからだ。しかし言葉と文章はそれほど単純に寄り添ってはいない。時に我々の表現が一人歩きし始めると、それを記すためであるはずの文章は、その役割を担えなくなってしまう時がある。日本語の貧しい語彙を補うため漢語を多用した文語体という難解な文章と、直接的な気持ちを表現する言葉との間に広がっていた溝はその良い例ではないだろうか。二葉亭四迷が口語体で文章を書くという行動に踏み切らなければ、明治の言文一致運動は起こらなかっただろうか。しかし文章が言葉を記すものである以上、双方間の溝は埋められなければならず、やはり何か同様の結果をもたらすきっかけは現れたのかもしれない。
 中村真一郎の『文章読本』は口語文が形作られて行く過程が、明治から現代にいたる作家の文章を例に解りやすく解説されていて、二葉亭四迷を始め夏目漱石や森鴎外がその基礎を築き、田山花袋や島崎藤村といった自然主義の人々がそこに客観性を与え、白樺派によって主観性を獲得していく、そんな過程が紹介されている。そして現在でも文章は変化し続けているのだということを教えてくれる。
 現在我々は日常的にメールのやり取りなどをするけれど、そこに記される言葉はどの程度自分の感情を相手に伝えられているのだろう。今程文章が気軽に相手に送れるようになると、思ったことを書いて送る、ということになりがちで、考えたことを書く、という風にはなりにくいかもしれない。例えば「テレビが面白かった」という言葉は自分が感じたことを率直に伝えただけで、そこに自分なりの考えがあるわけではない。メールのように気軽に相手に文章が送れると、どうしてもその言葉自身が軽くなってしまい、意味が希薄になっていくのかもしれない。それは言葉を文字にしただけで文章とは異質のものだ。文章は単純に言葉の記述をするだけのものではなくて、考えを示すものでもある。言葉は本来「感じる、考える、話す」という順番で口から出るもので、しかし現在では「感じる、話す」というものになってしまいがちだ。そしてメールのようなものの発達で文章もそれと同じになってきているのではないだろうか。もちろんコミュニケーションのためにわざわざ「感じる、考える、話す」という順序を踏む必要は必ずしもないかもしれないけれど、幾通りかしかなかった少ない抑揚で愛を伝えていた時代と、愛を伝える言葉がきちんとある現代とでは、どちらがより相手にそれを伝え得るのか、言葉を獲得した人間としてはやはりその「いく通りかの抑揚」には負けられないと思う。